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[[File:The memory bud at GILONG.JPG|thumb|200px|台湾基隆市にある慰霊碑]]
'''太平輪沈没事故'''()(たいへいりんちんぼつじこ)は[[1949年]][[1月]][[27日]]に発生した[[海難事故]]である。中華民國中聯企業公司<ref>{{cite news|author=張典婉|url=http://blog.chinatimes.com/ways1234/archive/2008/04/24/272178.html|title=尋找太平輪記事 前言|publisher=張典婉部落格|date=2008-04-24}}</ref>の[[客船]]太平輪<ref>輪とは[[蒸気船]]のこと。</ref>が[[上海]]から[[基隆市]]に向けて夜間航行中に過積載(2093トン)と[[航海灯]]の無灯火により、[[舟山群島]]海域の[[白節山]]([[簡体字]]:白节山)付近で石炭や木材を運搬中の[[貨物船]]建元輪と衝突し、両船とも沈没した。太平輪に乗っていた1000人が死亡した。[[オーストラリア]][[軍艦]]が34人を、舟山群島の漁師が登録されていない人々(未記名人員)を救助したが、生存者は合わせて50人だった。この事故は、中国の[[タイタニック (客船)|タイタニック号]]沈没事故と呼ばれる<ref>[http://focus.news.163.com/10/0525/15/67HRB1HM00011SM9.html 中国的泰坦尼克号:太平轮沉没记],网易</ref>。
 
== 太平輪 ==
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== 事故の背景 ==
[[国共内戦]]後期に多くの[[難民]]が[[中国大陸]]から脱出しようとした。これらの人々は金塊と交換して{{訳語疑問点範囲|艙位|date=2013-08-01年8月}}を入手するか、あるいは[[人間関係]]により、すでに満員の太平輪に乗船した。1949年1月27日([[中国暦]]除夕<ref>[[旧正月]]の前日。日本の[[大晦日]]にあたる。</ref>の前日)、太平輪は午前10時(現地時間)に出発予定だったが[[中華民国中央銀行]]の[[銀元]]の積み込み(裝運)を待ったため、出発時刻は午後4時18分になった。太平輪には計1000人の「最後の乗客(最後一批乘客)」(乗船券を持つ乗客508人、船員124人、乗船券を持たない乗客約300人)が乗船しており、また条鋼(鋼條)600トン、[[東南日報]]の印刷機・新聞紙100トン以上、中華民国中央銀行の重要書類1317箱、[[:zh:迪化街|迪化街]]が予約購入した南北貨などの重量貨物を積載していた。
 
== 事故の経過 ==
1949年1月27日、太平輪は[[中華民国]][[上海市]]から[[基隆市]]へ向けて、[[夜間外出禁止令]]を避けるため{{要説明|date=2013年8月}}、航海灯を消灯して夜間航行中、同日深夜23時45分、舟山群島海域の白節山付近(北緯30°25'、東経122°<ref>[http://maps.google.com/maps?f=q&source=s_q&hl=en&geocode=&q=N30%C2%B025',+E122%C2%B0&sll=30.145127,122.34375&sspn=5.793664,11.601562&ie=UTF8&ll=30.415519,122.000427&spn=1.444814,2.900391&z=9&iwloc=A 太平輪が沈没した地点(Googleマップ)]</ref>)で、基隆市を出発した2700トンの石炭や木材を積んだ建元輪<ref>[[無錫市]]の<!--(小麦粉)-->王[[:zh:手・榮鴻元|榮鴻元]]する。</ref>と衝突した。船体の中央部に衝突された建元輪はすぐに沈没し、船にいた72人が溺死し、3人が太平輪に救助された。太平輪は衝突の45分後(1月28日0時30分)に沈没し、船にいた1000人以上の人々が死亡した。沈没の際、船にいたほとんどの人々が悲鳴をあげた。水中に落ちた人々は、当時は気温が低かったため、凍死または溺死した。
 
1月28日早朝、[[オーストラリア]]軍艦が事後現場付近の海域を通りかかり、35人(男性30人、女性5人、男性の中に太平輪の船員2人を含む)の乗客を救助した。ただし、冬の海に長時間いたため、そのうち女性1人が體力不支で死亡した。オーストラリア軍艦の記録によると、最終的に救出した生存者は34人(男性30人、女性4人)だった。また、舟山群島の漁師が記録されていない他の人々を救出した。これらを合わせて生存者は約50人前後だった。犠牲者の中には台湾[[:zh:國立音樂院|国立音楽院]]へ向かっていた音楽家[[:zh:吳伯超|吳伯超]]、前[[遼寧省]]主席[[徐箴]]、名球評[[:zh:張昭雄 (球評)|張昭雄]]の父張生、刑事鑑定專家[[:zh:李昌鈺|李昌鈺]]の父李浩民などを含む多くの有名人や富商がいた<ref>[http://gcontent.nddaily.com/e/8d/e8dfff4676a47048/Blog/9a4/7cbbd6.html 今日海祭太平轮 大陆参与者居多],南都網</ref>。
 
現在[[:zh:上海市档案馆|上海市档案館]]に当時の記録が残っている。{{cquote|太平(轮)十一点过白节灯山,十二时半又回白节灯山边沉没。<br>太平(轮)十一点四十五分发求救信号……两船相撞处约在白节山东南二海里。}}
また、{{訳語疑問点範囲|檔案館檔案旁边|date=2013年8月}}の手書きの略図は、北東から南西へ向かっていた太平輪が白節山より南で建元輪と衝突し、白節山へ着岸させる途中で沈没したことをはっきりと示している。
 
太平輪が沈没した後海上には大量の宝飾品や佛像牌位、木箱入りの文書・綿花などが浮いており付近の漁師は驚いた。
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== 事故後 ==
*[[中華民国]][[:zh:上海臨時法院|上海臨時法院]]の判決により中聯企業公司に賠償が命じられたが、{{要出典範囲|その後すぐに上海は[[中国人民解放軍]]に占領され|date=2013年8月}}賠償金額は天文学的数字となった。さらに悪いことに、太平輪の保険会社の「上海華泰保険公司」が事故直後に[[倒産]]を宣言したため中聯企業公司自身が賠償の責任を負わなければならなくなった。中聯企業公司は最終的に倒産した。中聯企業公司所有の別の2隻の蒸気船は[[高雄港]]に係留されていたがすべて朽ち果てた。
*[[1951年]]、[[基隆港]]の東16埠頭の海軍基隆後勤支援指揮部内に[[于右任]]が題字を記した「太平輪遇難旅客紀念碑」が建っている。
*[[2004年]]11月、[[民進党]]族群事務部が[[鳳凰衛視]]と協力して[[ドキュメンタリー]] 《尋找太平輪》を撮影した。
*[[2012年]]4月2日~4日、[[:zh:旺旺中時媒體集團|旺旺中時媒体集団]]長天傳播製作のドキュメンタリー《驚濤太平輪:1949東方鐵達尼號沉船之謎》が[[:zh:中天新聞台|中天新聞台]]で一般公開された。司会を[[陳文茜]]が、[[説話 (中国)|説話]]を[[:zh:金士傑|金士傑]]が務めた。
*2012年4月14日、《驚濤太平輪》のプロデューサーの洪慧真が[[:zh:黃洛斐|黃洛斐]]の《驚濤太平輪》の批評に反論した<ref>{{cite news|author=洪慧真|url=http://news.chinatimes.com/forum/110514/112012041400452.html|title=記錄太平輪 三年一步一腳印|publisher=[[中国時報]]|date=2012-04-14}}</ref>。
 
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== 犠牲者 ==
*刑事鑑定專家[[:zh:李昌鈺|李昌鈺]]の父親、李浩民
*音楽教育家[[:zh:吳伯超|吳伯超]]
*海南受降代表[[王毅]]将軍
*[[:zh:臺北清真寺|台北清真寺]]創立者常子春と妻子・親族11人
*山西籍[[国民大会|国民大会代表]]邱仰濬
*総統府機要室主任[[:zh:毛慶祥|毛慶祥]]の2人の息子
*蒋経国がロシアにいた時の友人俞濟虞
*中華民国遼寧省主席(1948年辞任)[[徐箴]]
*[[:zh:黨員通訊局|党員通信局]]局長[[:zh:葉秀峯|葉秀峯]]の一人息子
 
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[[Category:海難事故]]