「伊達稙宗」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Addbot (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 2 件をウィキデータ上の d:q5227551 に転記
編集の要約なし
29行目:
 
== 生涯 ==
[[長享]]2年([[1488年]])、第13代当主・[[伊達尚宗]]の嫡男として生まれる。当初は慣例により第11代将軍[[足利義高]](のちの義澄)から[[偏諱]]の授与を受けて'''高宗'''(たかむね、初名)と名乗った。
 
[[永正]]11年([[1514年]])、父の死去にともない家督を相続して第14代当主となる。同年、[[羽州探題]]・[[最上義定]]を[[長谷堂城]]にて破り、妹を義定の室として送り込み、実質的に[[最上氏]]を支配下に置く。永正14年([[1517年]])、第1110代将軍(※11代義澄の将軍廃位後に将軍職に復帰した)[[足利義稙]]の上洛祝賀の為として多額の進物を送り、[[管領]]・[[細川高国]]を通じて一字拝領を願い出て許され、[[偏諱]]を受けて名を'''稙宗'''に改めるとともに、[[左京大夫]]に任官された。左京大夫は、元来[[奥州探題]][[大崎氏]]が世襲する官位であったが、この官位を伊達氏が獲得したことは、大崎氏に名実共に取って代わったと認めさせたことを示している。稙宗はこのようにして中央との結びつきを家格上昇に利用するとともに、[[葛西氏]]・[[岩城氏]]などと争い、これに婚姻外交を織り交ぜて勢力の急激な拡大に成功し、[[大永]]2年([[1522年]])には陸奥守護に補任された。
 
[[天文 (日本)|天文]]元年([[1532年]])に居城を[[梁川城]]から[[西山城]]に移すと体制の強化に努め、天文2年([[1533年]])に『蔵方之掟』13条の制定を皮切りに、天文4年([[1533年]])の『棟役日記』、天文7年([[1538年]])の『御段銭帳』などの徴税台帳を作成。天文5年([[1536年]])には171条に及ぶ[[分国法]]・『[[塵芥集]]』を制定し、伊達氏の統治機構の拡充を図った。また同年には、大崎氏の内乱鎮圧のため、[[大崎義直]]の要請に応じ南奥州の諸侯を従えて出動し、その代償として二男・[[大崎義宣|義宣]]を入嗣させる。この結果、奥州・羽州の両探題職を事実上伊達氏の統制下に置くことに成功した。
63行目:
*側室:某氏
**桑折宗貞([[桑折景長]]養子)
**葛西牛猿丸<ref>稙宗にとっては七男。牛猿丸は[[盛岡藩]]系の系譜では[[葛西晴清]](はるきよ)、[[仙台藩]]系の系譜では[[葛西晴胤]]を指すとしている。</ref>([[葛西晴重]]または晴重の長男・[[葛西守信|葛西稙清]]養子。※但し稙清は早世しているので前者が有力と思われる。
**[[村田宗殖]]([[村田近重]]養子)
**極楽院宗栄([[極楽院善栄]]養子)