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百姓一揆に関連して老中、若年寄、大目付、勘定奉行といった幕府高官が大量処分されたのは郡上一揆以外に他の例は無い<ref>白石(2005)p.576</ref>。しかし実際の幕府高官に対する吟味は、特に老中であった本多正珍に対して吟味や処分は徹底さを欠き、幕府高官の郡上一揆への介入問題については、おおむね勘定奉行大橋親義らの私的理由による権力の濫用として処分が決定された。これは当時の幕府勘定所が個人の裁量による権限行使を戒め、組織による対応を進めていたことにも対応している<ref>大賀(1980)pp.187-188、pp.192-193</ref>。
 
また郡上一揆の裁判によって、幕府内ではあくまで農民に対する年貢増徴によって財政再建を図る本多正珍らの勢力が衰退し、田沼意次に代表される商業資本への間接税を推進する勢力が主導権を握るようになる<ref>大石(2001)p.27</ref>。田沼は郡上一揆の裁判が進む中、宝暦8年(1758年)9月には加増されて一万石となって大名に列した。加増された領地は郡上一揆の判決で西丸若年寄を罷免され、改易された本多忠央の領地であった[[遠江国|遠江]]の[[相良藩|相良]]であり、また将軍世子[[徳川家治|家治]]付きの西丸若年寄を務めており、家治が将軍となった暁には権力の座に就くことが予想された本多忠央の失脚は、田沼意次が更に権勢を拡大させる要因の一つとなった<ref>藤田(2007)p.8、大石(2001)p.27</ref>。
 
=== 郡上藩役人、農民らの吟味 ===