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=== 創作説 ===
十七条憲法には古くから後世の創作とする説があり、真偽については現在でも問題となっている。
創作説は江戸末期の[[狩谷エキ斎|狩谷棭斎]]に始まるものとされる。狩谷は、「憲法を聖徳太子の筆なりとおもへるはたがへり、是は日本紀作者の潤色なるべし、日本紀(『日本書紀』)の内、文章作家の全文を載たるものなければ、十七条も面目ならぬを知るべし、もし憲法を太子の面目とせば、神武天皇の詔をも、当時の作とせんか」と、『文教温故批考』巻一に於いて『日本書紀』作者の創作と推定した。
 
また、[[津田左右吉]]は、[[1930年]]([[昭和]]5年)の『日本上代史研究』において、十七条憲法に登場する「[[国司]][[国造]]」という言葉や書かれている内容は、推古朝当時の国制と合わず、後世、すなわち『日本書紀』編纂頃に作成されたものであろうとした。
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この津田説に対し、[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]は、[[1979年]](昭和54年)の『聖徳太子』において、「国司」は推古朝当時に存在したと見てもよく、律令制以前であっても官制的なものはある程度存在したから、『日本書紀』の記述を肯定できるとした。
 
さらに[[森博達]]は、[[1999年]]([[平成]]11年)の『日本書紀の謎を解く』において、「十七条憲法の漢文の日本的特徴([[和習]])から[[7世紀]]とは考えられず、『日本書紀』編纂とともに創作されたもの」とした。森は、『日本書紀』推古紀の文章に見られる誤字・誤記が十七条憲法中に共通して見られる(例えば「少事是輕」は「小事是輕」が正しい表記だが、小の字を少に誤る癖が推古紀に共通してある)と述べ、『日本書紀』編纂時に少なくとも文章の潤色は為されたものと考え、聖徳太子の書いた原本・十七条憲法は存在したかもしれないが、それは立証できないので、原状では後世の作とするよりないと推定している。[[来村多加史]]・[[童門冬二]]らもそれに概ね賛同しており、童門は法規の立案に携わった元官僚としての意見として、十七条憲法は内容が頻繁に改正を要する国家公務員法であり、一度に書かれたものに加筆訂正が行われないことは考えにくいと述べている。
 
== 内容 ==