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ライン川とルール川の合流点という重要性に注目した古代[[ローマ帝国]]の集落が起源で、1世紀の遺跡が発見されている。その後、交易の場として発展し、1290年には帝国自由都市となり、15世紀初めには[[ハンザ同盟]]に参加した。しかし、17世紀末には[[ブランデンブルク=プロイセン|プロイセン]]に支配されることとなり、帝国自由都市を称することも禁止された。
 
ここに大学設置を計画した[[ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国|ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公]][[ヴィルヘルム5世 (ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公)|ヴィルヘルム5世]]は、[[ゲラルドゥス・メルカトル|メルカトル]]を招いた。しかし、[[神聖ローマ帝国|皇帝]]と[[ローマ教皇]]による大学設置の許可がなかなか与えられないため、メルカトルは、1559年に設立された専門学校で教鞭をとっている。ヴィルヘルム5世が没した後の1655年にようやく大学が設置され、神学、法学、医学、哲学を擁し、デュイスブルクは大学都市として発展した。しかし、1818年にプロイセンの[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]によって廃止され、大学図書館蔵書の大部分は、同年に[[ボン]]に新設された[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]へ移された。現在デュイスブルクにある大学は、その後の1891年に設立されたもので、2003年にエッセン大学と合併されてデュイスブルク=エッセン大学([[:de:Universität Duisburg-Essen|Universität Duisburg-Essen]])となった。
 
19世紀以降は、[[産業革命]]が進展する中で、ライン川とルール川が交わり、石炭資源がある利点を生かし、工業都市として成長した。[[第二次世界大戦]]で荒廃したが、戦後復興を果たした。1975年、周辺の地域を合併して現在のデュイスブルクが形成された。
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== 文化 ==
[[メルカトル図法]]で知られる[[ゲラルドゥス・メルカトル]]がデュイスブルクで没した。聖ザルバトール教会に埋葬されている。
* 1877年に設立されたデュイスブルク・フィル([[:de:Duisburger Philharmoniker|Duisburger Philharmoniker]])は、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]の[[交響曲第9番 (ブルックナー)|交響曲第9番]]のドイツ初演を行ったことでも有名。1930年代には[[オイゲン・ヨッフム]]が音楽監督であった。
 
== スポーツ ==