「板倉勝資」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
3行目:
第5代藩主・[[板倉勝喜]]の四男。正室は[[朽木倫綱]]の娘。子に[[板倉勝敬]](長男)。官位は[[越中国|越中]]守。
 
[[文化 (元号)|文化]]2年([[1805年]])12月8日に先代藩主で兄の[[板倉勝もと|板倉勝氐]]が若死にしたため、文化3年([[1806年]])3月19日に後を継いだ。文化8年11月15日、将軍[[徳川家斉]]に拝謁する。同年12月11日、従五位下越中守に叙任する。有能な人物で殖産興業や民政に尽力し、凶作に備えて[[義倉]]を設置した。また、[[藩校]]の[[誠意館]]を創設して藩士子弟の教育化に努めた。[[天保]]3年([[1832年]])閏11月21日、弟の[[板倉勝貞]]に家督を譲って隠居した。[[弘化]]2年([[1845年]])8月に剃髪して愚山と号した。嘉永元年(1848年)8月17日、60歳で死去。法号:督応院殿麒鳳源麟大居士。墓所:[[愛知県]][[西尾市]]貝吹町の長円寺。
 
庭瀬藩の歴代藩主の中では有能な人物で、治績も残したため、中興の英主と言われている。