「他戸親王」の版間の差分

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やがて称徳天皇が亡くなると[[藤原氏]]は他戸王の父である白壁王を皇位継承者として擁立する<ref>その際、女系とはいえ天武天皇の血を引く最後の皇族である他戸王を皇位につかせるための中継ぎとして父親の白壁王に一時皇位を継承させるという[[大義名分]]を持ち出したという説がある。[[ノート:他戸親王]]参照。</ref>。かくして宝亀元年([[770年]])に白壁王は即位して光仁天皇となったのである。翌宝亀2年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]には他戸親王は光仁天皇の皇太子として立てられた。
 
ところが宝亀3年([[772年]])、突如母親である[[皇后]]井上内親王が夫である天皇を呪ったという[[大逆]]容疑で皇后を廃されて、[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]にはこれに連座する形で他戸親王が皇太子を廃される。更に翌宝亀4年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]には井上内親王が[[難波内親王]](光仁天皇の同母姉)を呪い殺したという容疑を受けて、他戸親王は母とともに[[庶人]]とされて、[[大和国]]宇智郡(現在の[[奈良県]][[五條市]])没官の邸に幽閉され、やがて宝亀6年(775年)4月27日、幽閉先で母とともに急死する。なお、この突然の死については暗殺説もある。一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力である<ref>藤原氏の内部には他戸親王の立太子に反対する者もいた。永手とともに白壁王擁立の同志であった[[藤原式家]]の[[藤原良継]]・[[藤原百川|百川]]兄弟は光仁天皇の庶長子で有能であるといわれていた[[大学頭]]山部親王(後に[[中務卿]]、後の[[桓武天皇]])の立太子を要求したのである。しかし、いわゆる「原則論者」であった(かつて、[[孝謙天皇]]の後継者問題でも血縁関係を重視して聖武天皇の娘婿である[[塩焼王]]を推薦している)永手は他戸親王以外の立太子にはあくまで反対した、そのため宝亀2年[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]に左大臣藤原永手が急死して、式家の藤原良継が[[内臣]]として政権を握るようになったころから親王の運命は一変する事となった、とする説がある。[[ノート:他戸親王]]参照</ref>。
 
かくして、山部親王が皇太子に立てられてやがて桓武天皇として即位する事になるものの、他戸親王の死後には天変地異が相次ぎ、更に宝亀10年([[779年]])には[[周防国]]で親王の偽者が現れるなど、「他戸親王の[[怨霊]]」が光仁・桓武両朝を悩ませる事になっていくのである。