「ムスチスラフ3世」の版間の差分

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[[1195年]]、[[チェルニーヒウ|チェルニゴフ]]の[[オレーク一門]]が[[ヴィーツェプスク|ヴィテプスク]]への遠征軍を組織し、途上で[[スモレンスク]]の地を破壊し始めた。ムスチスラフ3世は、叔父でありスモレンスク公の[[ダヴィド・ロスチスラヴィチ]]により、スモレンスク公軍の長に置かれ、迎撃に出た。戦闘そのものは勝利に終わったが、チェルニゴフ軍と[[ポロチャーネ族]]に背後を衝かれ、[[捕虜]]になっている。また、1197年には叔父ダヴィド・ロスチスラヴィチの死によりスモレンスク公となった。
 
[[12191214年]]、従兄弟のムスチスラフ・ムスチスラヴィチ[[:ru:Мстислав Мстиславич Удатный|(ru)]]が[[ノヴゴロド公]]となり、ムスチスラフ3世をキエフ大公とした。なおムスチスラフ・ムスチスラヴィチは、次の夏までに[[ハールィチ|ガーリチ]]に基盤を築いている。
 
1223年、[[モンゴル帝国]]軍の最初の侵攻の情報がもたらされると、ムスチスラフ3世とムスチスラフ・ムスチスラヴィチは、[[キエフ]]にて、モンゴル軍に対する諸公との会議を取り持った。しかし、肝心の[[カルカ河畔の戦い]]では川岸の[[要塞]]化を怠り、3日で侵略を許した。諸公の連合軍は敗れ、ムスチスラフ3世は捕虜となり処刑された。