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{{出典の明記|date=2013年6月}}
'''江戸っ子'''(えどっこ、江戸っ児)とは、徳川[[江戸]]で生まれ育った[[江戸]]の[[住民]]を指す呼称言葉。「さっぱりとした気風」や「いなせ」で「喧嘩っ早い」など、特定の気風を持った者を指す事が多い
 
== 江戸っ子の ==
古くは「'''江戸もの'''」と呼び、明和以前には「江戸っ子」という表現は見受けられない。江戸古典落語などでは、「山王権現、神田明神の信者(氏子、檀家)」「古町に生まれた者」「親子3代にわたって江戸下町に生まれ暮らした町人」などとされている。
江戸住民を指す呼称としては、古くは「'''江戸もの'''」と呼び、[[明和]]以前には「江戸っ子」という表現は見受けられない。文献上の最古のものは明和8年([[1771年]])に作られたと思われる[[川柳]]「江戸ッ子のわらんじをはくらんがしさ」という句である<ref>日本国語大辞典、小学館。</ref>{{sfn|田中克佳|2003|pp=143}}。また寛政9年(1797年)発行の洒落本『廓通遊子』にも江戸っ子という表記が見られる{{sfn|田中克佳|2003|pp=137}}。[[文化 (元号)|文化]][[文政]]年間頃には「江戸っ子」を自称するものが増加しているという指摘がなされている{{sfn|田中克佳|2003|pp=137}}。この頃には江戸っ子は「浅薄で、向こう見ずで、喧嘩っ早い」という形容が成されていた{{sfn|田中克佳|2003|pp=138}}。
 
[[浜田義一郎]]、[[石母田俊]]、[[西山松之助]]らは江戸っ子の成立は明和期からであるとし、[[三田村鳶魚]]、[[竹内誠]]、[[川崎房五郎]]は文化文政期に成立したと見ている。また西山は江戸っ子概念の源流は[[宝暦]]期の[[紀伊国屋文左衛門]]・[[奈良屋茂左衛門]]といった、遊郭で[[男伊達]]を競った豪商たちにあるとしている{{sfn|田中克佳|2003|pp=144}}。
== 概要 ==
主に江戸期から江戸町域内において代を重ねた[[町人]]を差すが、[[武士]]や[[借家]]人を含むこともある。
 
== 各時期の江戸っ子の概念 ==
江戸期から代を重ねた住人と、[[明治]]の[[東京]]改称以後に代を重ねた住人とを区別して「'''東京っ子'''(とうきょうっこ)」と呼称することがある。
多くの研究者は江戸っ子の性格として「見栄坊」「向こう見ずの強がり」「喧嘩っ早い」「生き方が浅薄で軽々しい」「独りよがり」などの点をあげている{{sfn|田中克佳|2003|pp=143}}。また「江戸っ子は三代続いて江戸生まれでなければならない」という概念もよく知られている{{sfn|田中克佳|2003|pp=139}}。また江戸っ子の性格をあらわす表現としては「江戸っ子は[[鯉のぼり|五月の鯉]]の吹き流し<ref>[http://kotobank.jp/word/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%A3%E5%AD%90%E3%81%AF%E4%BA%94%E6%9C%88%E3%81%AE%E9%AF%89%E3%81%AE%E5%90%B9%E3%81%8D%E6%B5%81%E3%81%97 江戸っ子は五月の鯉の吹き流し] -コトバンク</ref>」、「江戸っ子の生まれ損ない金を貯め」という川柳に見られるような「江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ」という金離れの良さを著した言葉がある。現代に見られる類型的な江戸っ子像として「金離れが良く、細かい事にはこだわらず商売下手、意地っ張りで喧嘩早く、駄洒落ばかり言うが議論は苦手で、人情家で涙にもろく正義感に溢れる」・「いきでいなせ」などと表現される[短気]]・気が早い、などとも言われ、江戸っ子気質(えどっこかたぎ)などとも呼ばれている。
 
江戸っ子の研究の先駆者である三田村鳶魚はこうした「江戸っ子」はいわゆる町の表通りに住む「町人」とは異なり、裏店の長屋に住む[[町火消し|火消し]]、[[武家奉公人]]、日雇いの左官・大工などが江戸っ子の頭分にあたるとしている{{sfn|田中克佳|2003|pp=136}}。三田村は[[東海道中膝栗毛]]や[[浮世床]]等で江戸っ子をからかったものが多いのは、こうした「江戸っ子」達が本を読むことがない無学な者であったからとしている{{sfn|田中克佳|2003|pp=138-139,147}}。三田村は幕末に至る景気後退の中で、こうした江戸っ子達は徐々に姿を消していったとしている{{sfn|田中克佳|2003|pp=140}}。
近年、江戸っ子と呼称する条件の厳しさから、概ね[[東京15区|東京旧市内]]の地域の住人の間で、同じ地域内で代を重ねた住人に対し「(地域名)っ子」の名称を好んで使う傾向にある(神田っ子、下谷っ子、本所っ子、深川っ子など)。
 
1980年(昭和55年)に『江戸っ子』を著した[[西山松之助]]は、江戸時代に著された江戸っ子に関する書籍を調査し、江戸っ子を「自称江戸っ子」と「本格の江戸っ子」に分類した。それによると「[[徳川将軍家]]のお膝元である江戸に生まれ」、「宵越しの金を使わない」「乳母日傘で過ごした高級町人」「[[市川團十郎]]を贔屓とし、『[[いき]]』や『はり』に男を磨く生きのいい人間」が本格の江戸っ子像であるとし、「喧嘩っ早い」などの性格はこの変形や半面に過ぎないとした{{sfn|田中克佳|2003|pp=142-143}}。
「ちゃきちゃきの~」という言葉を冠すしたときは、「生粋の江戸っ子である」という強調の意味である。もとは[[長男]]の長男を意味する「嫡嫡」がなまった言葉。
 
天明期の[[戯作者]][[山東京伝]]は、こうした江戸っ子をデフォルメし「江戸っ子」を自称する人物を作品に登場させた{{sfn|田中克佳|2003|pp=144}}。京伝は1787年(天明7年)発刊の『[[通言総籬]]』において、気負いだった空回りする江戸っ子を描き、多くの支持や亜流を産んだ。『通言総籬』には以下のような江戸っ子の口上が記載されている。
後世の典型的な江戸っ子像として「金離れが良く、細かい事にはこだわらず商売下手、意地っ張りで喧嘩早く、駄洒落ばかり言うが議論は苦手で、人情家で涙にもろく正義感に溢れる」・「いきでいなせ」と言われ、[[夏目漱石]]描く『[[坊つちやん|坊ちゃん]]』の人物像がその典型である。しばしば、[[鯉のぼり|五月の鯉]]で口ばかり、宵越しの銭は持たない、[[短気]]・気が早い、などとも言われ、江戸っ子気質(えどっこかたぎ)などとも呼ばれている。
 
{{Quote|金の魚虎([[しゃちほこ]])をにらんで、水道の水を産湯に浴びて、お膝元に生まれ出でては、拝搗の米<ref>おがみつき。杵で[[精米]]した米</ref>を喰って、乳母日傘で長(ひととなり)、金銀の細螺はじきに、[[陸奥山]]も卑きとし、吉原本田の髣筆の間に、安房上総も近しとす、隅水([[隅田川]])の[[シラウオ|鮊]]も中落は喰ず、本町の角屋敷をなげて大門をは、人の心の花にぞありける、江戸っ子の根性骨、萬事に渡る[[日本橋|日本ばし]]の真中から・・・(後略)|山東京伝『通言総籬』|{{sfn|田中克佳|2003|pp=147}}}}
「遊里や芝居見物で荒い金づかいをし、蔵前本田の髷に黒小袖を着け、鮫ざやの脇差をさし、河東節を口ずさみ大仰に歩く様」これが最も江戸っ子的な風俗であり蔵前風ともされる([[十八大通]])。
 
しかし[[寛政の改革]]によってこうした著作は反体制的であるとして弾圧された。一方で天明期の戯作の支持者であった魚河岸の魚問屋、[[札差]]達は「江戸っ子」概念に誇りを持ち、継承していった{{sfn|田中克佳|2003|pp=144-145}}。一方で西山は文化文政期になると、下層町民が文化活動に参加するようになり、江戸っ子を自称して空威張りをはじめるようになったとしている{{sfn|田中克佳|2003|pp=146}}。
== 江戸っ子の形成 ==
研究の結果、江戸は[[徳川家康]]の入府([[天正]]18年([[1590年]]))以前から、[[水運|水上交通]]の要衝としてある程度の発展を遂げていたと考えられているが、[[江戸幕府]]成立後の[[都市]]整備の一環として主に[[畿内]]、特に[[堺]]、[[大坂]]の[[商工業]]者が幕府により強制的に[[移住]]させられたことを端緒として、江戸の経済成長とともに全国各地から江戸へと移り住む住人が急増して古くからの住民を圧倒し、世界でも屈指の人口を持つ[[消費都市]]へと変貌する。
 
== 概要現代 ==
しかし、「江戸っ子」と称される独自の住民意識が登場するようになるのは案外遅く、家康の江戸入府から実に200年近く経った[[江戸時代]]後半のことであると考えられている。文献上の最古のものは[[明和]]8年([[1771年]])に作られたと思われる[[川柳]]「江戸ッ子のわらんじをはくらんがしさ」<ref>日本国語大辞典、小学館。</ref>という句であるとされている。
[[高度経済成長期]]以降に東北地方を中心に全国から大量の人口が移入定着したことに加えて、[[バブル経済]]によるいわゆる「[[地上げ]]」によっ地域を離れた住民も多く、実態としての「江戸っ子」は消滅の瀬戸際にあると言われており、[[江戸言葉]]を喋る昔気質の江戸っ子は少なくなっているとされる。なお、関東大震災や東京空襲が衰退の原因であるとする向きがあるが、江戸文化は災害に対して極めて耐性があることが特徴の一つであり、現に災害毎に江戸の規模が拡大された歴史があり、戦災を受けていない京都の都市文化が衰退していることからも<ref>京都市情報館/京都市の基本構想・基本計画(資料編)/課題から見る京都 1.京都市の現況/京都市ホームページ</ref>、戦災や震災とは関係性が薄いとされている。
 
== 近代・現代文化における「江戸っ子」 ==
江戸っ子意識の高まりの背景にはこの時期の経済的社会的変動により、江戸の町民の間に貧富の差が広がってきたこと、それに加えて新規の住民――豊富な財力を有して江戸の行政にも影響力を与えるようになった[[伊勢国|伊勢]]・[[近江国|近江]]商人のもつ厳しい経済観念と倹約姿勢、[[飢饉]]や貧困により[[奥羽]]などから流入して江戸の町民より安価でも働いた、地方の[[村落|農村]]([[田舎]])出身者の「[[野暮]]」――に対する反発が古くからの町民に広がってきたことが挙げられる。特に古くからの住民が多かった[[神田 (千代田区)|神田]]・[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]・[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]・[[下谷]]・[[浅草 (台東区)|浅草]]・[[本所 (墨田区)|本所]]・[[深川 (江東区)|深川]]地域では江戸生まれ同士で強い「身内」意識が形成されたと考えられている。
[[File:Ryūtarō Ōtomo 1.jpg|thumb|[[大友柳太郎]]が演じる一心太助。『[[天下の御意見番を意見する男]]』(1947、大映)]]
明治期以降は[[江戸落語]]、[[講談]]、[[映画]]などで江戸っ子の姿が描かれてきた。この時期に広まった<ref>[http://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E5%BF%83%E5%A4%AA%E5%8A%A9 一心太助] -[[コトバンク]]</ref>代表的な江戸っ子像が[[一心太助]]であり、映画やテレビ番組で広く知られた。江戸落語では、「山王権現、神田明神の信者(氏子、檀家)」「古町に生まれた者」「親子3代にわたって江戸下町に生まれ暮らした町人」などとされている。『[[粗忽長屋]]』や『[[大山詣り]]』『[[たらちね]]』など、江戸っ子を登場人物とする演目が多く見られる。「[[熊五郎]]・[[八五郎]](熊さん・八っつぁん)」はこうした江戸落語に登場する、「長屋に住む江戸っ子」の代表的なキャラクターである{{sfn|香取久三子|2003|134}}。
 
小説では[[夏目漱石]]の『[[坊つちやん]]』の主人公が、江戸っ子を自負する人物として描かれている<ref>「わからないけれども、決して負けるつもりはない。このままに済ましてはおれの顔にかかわる。江戸っ子は意気地がないと云われるのは残念だ。」[http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/752_14964.html 坊っちゃん]- [[青空文庫]]</ref>。また[[テレビドラマ]]・映画シリーズ「[[男はつらいよ]]」の主人公・[[車寅次郎]]、漫画では『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』の[[両津勘吉]]、『[[もーれつア太郎]]』のア太郎などが江戸っ子のキャラクターとして知られている。
彼らは自分達こそが「将軍様のお膝元」との帰属意識と、そこに集まる大名たちの「消費都市」江戸を自分たちが支えているという意識を持ち、[[天明]]年間には江戸の町民が経済・[[文化]]の担い手としての地位を獲得し始めたこともあり、共通の意識として広く江戸社会に根付いた。
 
下町の出身である[[ビートたけし]]は、江戸っ子的なキャラクターを演じる事が多い。[[鬼瓦権造]]や[[火薬田ドン]]といったキャラクターなどはその典型である。たけしはおりからの[[漫才ブーム]]で[[上方]]ことばを擬した話し方が蔓延した中で、江戸方言で通すことを意識していた<ref>[[ビートたけしのオールナイトニッポン]]におけるたけしと[[高田文夫]]の会話</ref>{{要出典|date=2013年8月}}。旧江戸地区以外の全国にも江戸っ子気質を広く知らしめている。
== 各時期の江戸っ子 ==
「江戸っ子」と言っても厳密に言えば3つの時期に分けて考えられると言われている。
 
== 現代における江戸っ子像 ==
まず最初は[[天明]]期に現れた地方出身者や彼らに支えられた[[幕府]][[権力]]への強い反骨精神に支えられた日本橋・神田の[[町人]]や[[蔵前]]の[[札差]]が[[歌舞伎]]の『[[助六]]』や[[山東京伝]]の[[洒落本]]、[[川柳]]・[[浮世絵]]の[[流行]]などに代表される貪欲な文化的関心と、強い社会批判の精神を併せ持ち、[[天下祭]]([[神田祭]]・[[山王祭 (千代田区)|山王祭]])・[[深川祭]]・[[三社祭]]・[[町火消]]・歌舞伎・[[遊郭]]などを発信元として江戸独自の文化を形成していった。これら「江戸っ子」の反権力的な動向に気付いた江戸幕府は[[寛政の改革]]を行い統制を強めて反動的なうごきを抑圧していくことになる。[[山東京伝]]が「江戸の[[水道]]を産湯とした」「宵越しの銭は持たない」「[[いき]]と(意地の)張りを本領とする」と定義づけた「江戸っ子」の姿とはこの時期のものである。
江戸期から代を重ねた住人と、[[明治]]の[[東京]]改称以後に代を重ねた住人とを区別して「'''東京っ子'''(とうきょうっこ)」と呼称することがある。
 
近年、江戸っ子と呼称する条件の厳しさから、概ね[[東京15区|東京旧市内]]の地域の住人の間で、同じ地域内で代を重ねた住人に対し「(地域名)っ子」の名称を好んで使う傾向にある(神田っ子、下谷っ子、本所っ子、深川っ子など)。
第二期として、[[文化_(元号)|文化]]・[[文政]]年間がある。江戸の経済発展によって生活的なゆとりがわずかながらも生み出されてきた下層の人々(主に[[長屋]]住まいの借家人)が強く江戸っ子意識を振りかざすようになる。この時期の「江戸っ子」像が以後も引き継がれているため、典型例とされているが、寛政の改革などを経て江戸っ子本来が有した反骨精神などが弱められた姿であり、[[武家]]主体の[[都市#行政都市・政治都市|政治都市]]・[[消費]]都市に相応しい江戸っ子であったとも言える。とは言え、彼らに支えられて江戸に[[化政文化]]が花開き、江戸っ子気質は下層の庶民だけでなく下層の武士にも広く共有されるものとなり、江戸っ子の気質や[[江戸言葉]]は[[日光街道]]筋など江戸周辺の町や農村地域にも影響を与えた。この時代の江戸っ子の姿を今に伝えるのが、不良[[旗本]]だった[[勝小吉]]([[勝海舟]]の父)が喧嘩に明け暮れた半生を口述した『夢酔独言』である。
 
「ちゃきちゃきの~」という言葉を冠て表現されるこきはもあるがこれは「生粋の江戸っ子である」という強調の意味である。もとは[[長男]]の長男を意味する「嫡嫡」がなまった言葉。
第三期は、[[明治]]以後に新しい支配層となった主に[[薩摩]]・[[長州]]出身の下級武家の出身者が、[[京都]]の同じく[[岩倉具視]]を代表とする下級貴族らと共に江戸に乗り込み、江戸幕府から見れば革命政府ともいえる明治政府を打ち立て[[東京]]と改称させ首都とした激変の時代であった。[[薩長土肥]]その他維新の功労者とされる西国勢の者が、新たに[[役人]]や[[華族]]として天皇の権威を笠に幅をきかせるようになり、かつての[[武家屋敷]]の跡であるいわゆる「[[山の手]]」の[[台地]]に居を構えた事への古くからの江戸町民の反感があり、これには薩長の下級武士ら地方出身者そのものへの反発とその政治([[明治政府]])に対する反感があった。そこには従来の江戸っ子だけではなく、旧[[名主]]階層や上層の[[旗本]]出身者などの東京(旧江戸)在住の旧支配層の一部も加わるものであり、伝統的な江戸っ子の文化・精神を維持する事によって自己の[[アイデンティティ]]の維持を図るものであった。この点について歌舞伎を例に見ると、幕末から明治にかけての代表的作者[[河竹黙阿弥]]の作品群が特徴的である。黙阿弥は、幕末には盗賊が活躍する派手で娯楽的な作品を多く制作したが(『[[青砥稿花紅彩画|白浪五人男]]』『[[三人吉三廓初買|三人吉三]]』等)、明治になると、江戸の[[庶民]]や下級武士の生き様を活写した作品を多数送り出している(『梅雨小袖昔八丈(髪結新三)』『天衣紛上野初花(河内山・雪夕暮入谷畦道)』など)。これは黙阿弥自身の志向の変化にとどまらず、当時それを評価し受容する観客層が存在したことを物語っている。また江戸東京落語の町人の主人公「八五郎・熊五郎(八っつぁん、熊さん)」が定着したのもこの時代<ref>香取久三子/江戸東京落語「八つぁん熊さん」の名の成立背景とそのルーツ/笑い学研究 [巻号一覧] 笑い学研究 (9) 2002-07-27 日本笑い学会</ref>からであり、上記時代背景を投影しているという。
 
== 現代 ==
[[高度経済成長期]]以降に東北地方を中心に全国から大量の人口が移入定着したことに加えて、[[バブル経済]]によるいわゆる「[[地上げ]]」によっ地域を離れた住民も多く、実態としての「江戸っ子」は消滅の瀬戸際にあると言われており、[[江戸言葉]]を喋る昔気質の江戸っ子は少なくなっているとされる。なお、関東大震災や東京空襲が衰退の原因であるとする向きがあるが、江戸文化は災害に対して極めて耐性があることが特徴の一つであり、現に災害毎に江戸の規模が拡大された歴史があり、戦災を受けていない京都の都市文化が衰退していることからも<ref>京都市情報館/京都市の基本構想・基本計画(資料編)/課題から見る京都 1.京都市の現況/京都市ホームページ</ref>、戦災や震災とは関係性が薄いとされている。
 
ドラマ、時代劇などで江戸っ子気質として登場するものはいまだに人気が高く、一種のプライドとして存在している。[[講談]]・映画で知られる[[架空]][[キャラクター]]・[[一心太助]]や、[[テレビドラマ]]・映画シリーズ「[[男はつらいよ]]」の主人公・[[車寅次郎]]、[[ビートたけし]]がTVなどで演じる[[鬼瓦権造]]や[[火薬田ドン]]といったキャラクター(『[[ビートたけしのオールナイトニッポン]]』は、おりからの[[漫才ブーム]]で[[上方]]ことばを擬した話し方が蔓延した中で、江戸っ子とも取れるほどの、江戸方言で通すことを、たけしと[[高田文夫]]の間で取り決めていた)などはその典型であり、旧江戸地区以外の全国にも江戸っ子気質を広く知らしめている。
 
== 文化 ==
江戸っ子の気質が、文化を創り出した。
*[[屋台]]
*[[握り寿司]]([[江戸前寿司]])
*[[蕎麦]](江戸前蕎麦)・[[かけそば]]
*[[駄洒落]]([[地口]])
 
== 関連項目 ==
* 江戸っ子の代表格 - [[遠山景元|遠山金四郎]]、[[一心太助]]、[[車寅次郎]]、[[両津勘吉]]、[[清水幾太郎]]
* [[下町]]
* [[江戸言葉]](江戸方言)
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==脚注==
{{Reflist}}
 
== 参考==
* {{Cite journal|和書|author= 田中克佳|title=「江戸っ子」の人間像とその実体|date=2003|publisher=慶應義塾大学|journal=哲學 |naid=110007409417|volume= 109|pages=135-147 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author= 香取久三子|title=江戸東京落語「八つぁん熊さん」の名の成立背景とそのルーツ|date=2002|publisher=日本笑い学会|journal=笑い学研究|naid=110002696774|volume= 9|pages=133-140 |ref=harv}}
 
{{DEFAULTSORT:えとつこ}}