「シリアの歴史」の版間の差分

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===「肥沃な三日月地帯」===
[[ファイル:Assyria map.png|thumb|left|古代中東地域の都市と諸勢力]]
紀元前3千年紀には[[エブラ]]、[[キシュ]]、[[アブツァラリク]]、[[マリ (シリア)|マリ]]など血縁によって結ばれた[[セム語]][[都市]]文明圏が成立し、そのうちエブラは[[大麦]]、[[オリーブ]]や織物の生産が行われ、「マリムーク」という指導者のもと、[[メソポタミア]]から[[パレスチナ]]、[[エジプト]]まで交易が営まれていた。[[紀元前23世紀]]頃には[[王の道 (パレスチナ)|王の道]]や[[ウィア・マリス]]という通商交易路が使われていた。エブラは紀元前2250年ごろに[[アッカド]]に滅ぼされる。またマリは宗教的中心地として紀元前1900年頃栄えるが、紀元前1850
[[アッシリア]]王の[[シャムシ・アダド1世]]が[[ヤスマフ・アダド]]をマリ王にし間接支配を布いた。そして紀元前1759年には[[バビロニア]]の[[ハンムラビ]]に滅ぼされた。
 
マリは宗教的中心地として紀元前1900年頃栄えるが、紀元前1850年[[アッシリア]]王の[[シャムシ・アダド1世]]が[[ヤスマフ・アダド]]をマリ王にし間接支配を布いた。して紀元前1759年には[[バビロニア]][[ハンムラビ]]に滅ぼされた。紀元前15世紀に[[ミタンニ王国]]が成立。紀元前13世紀には[[アッシリア]]がミタンニ王国を滅ぼした。

一方、海岸部では[[フェニキア人]]の植民が展開された。[[海の民]]によりヒッタイトが滅亡すると[[アラム人]]の小国が乱立。その後はアッシリアが[[ティグラト・ピレセル3世]]などの優秀な指導者によって勢力を増し、紀元前735年[[アッシリア]]が統一。紀元前732年には北に位置する騎馬民族[[スキタイ]]に押されて南下した[[キンメリア]]人の侵攻を受けた。その後、アッシリア最後の偉大な王とされる[[アッシュールバニパル]](在位:紀元前668年 - 紀元前627年頃)が即位し、'''[[アッシュールバニパルの図書館|ニネヴェ図書館]]'''と呼ばれる図書館を建造して数万点に及ぶ粘土板を保管した。これらは今のメソポタミア史を研究する上で絶大な影響力を持つ。
だが彼の死後、急速に衰退したアッシリアは[[紀元前612年]]に[[新バビロニア]]と[[メディア]]の攻撃を受けて滅亡。そして[[新バビロニア]]、[[メディア]]、[[リディア]]、[[エジプト]]などの強国が乱立するが、[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア]]の[[キュロス2世]]がメソポタミア地域の統一、続く[[カンビュセス2世]]が[[古代エジプト]]を制圧し、ついに[[古代オリエント]]世界全域の支配に成功した。
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