「エミール・ベルナール (画家)」の版間の差分

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エミール・ベルナールは、1868年、フランスの[[リール (フランス)|リール]]で生まれた。父は繊維業者であった。10歳の時(1878年)、一家は[[パリ]]に移った。1884年、[[フェルナン・コルモン]]の画塾に入り、ここで[[ルイ・アンクタン]]や[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック]]と出会った。
 
1886年にコルモンの[[アトリエ]]を追われ、ベルナールはパリを去って[[ノルマンディー]]や[[ブルターニュ半島]]を歩いて旅した。[[コンカルノー]]で[[エミール・シェフネッケル]]と出会い、彼に[[ポール・ゴーギャン]]への紹介状をもらって[[ポン=タヴン]]に向かったが、この時はゴーギャンとほとんど話をする機会がなかった。
 
1886年から1887年にかけての冬、パリで[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]と出会った。この頃、ベルナールは[[点描]]による絵を制作している。1887年の春、再びノルマンディーとブルターニュ半島に向かい、サン=ブリアック=シュル=メールで2か月間滞在した後、ポン=タヴンを訪れた。この時、ゴーギャンや[[シャルル・ラヴァル]]はカリブ海の[[マルティニーク]]に出かけていた。ベルナールは、[[点描]]を捨て、ルイ・アンクタンとともに[[クロワゾニスム]]を発展させていった。
 
1888年8月、ベルナールはポン=タヴンに戻ったゴーギャンと本格的な出会いを果たした。これ以後、2人は「総合主義」(サンテティスム)を作り上げていった。同年、総合主義の代表作「草地のブルターニュの女たち」を制作。1889年、ポン=タヴンの画家たちのグループはパリのカフェ・ヴォルピニで展覧会を開いた。
 
1891年、ベルナールとゴーギャンとの間で諍いがあり、2人は絶交に至った。