「鄭成功」の版間の差分

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=== 誕生 ===
[[ファイル:JapaneseKoxinga.JPG|thumbnail|250px|幼年鄭氏母子彫像(台湾:台南市・鄭成功祖廟)]]
[[日本]]の[[平戸市|平戸]]で父[[鄭芝龍]]と日本人の母[[田川マツ|田川松]]の間に生まれた成功の父、芝龍は大陸は福建省の人で、平戸老一官と称し、時の第28代藩主宋陽隆信の寵をうけ川内浦に住み、浦人田川マツを娶り二子を生んだ。二人に、福松と七左衛門と名付けた。 たまたま、母マツが千里ヶ浜に貝拾いにいき、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて出産した。この男児こそ、福松少年であり、後の鄭成功である。幼名を'''福松'''(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、7歳のときに父の故郷[[福建省|福建]]につれてこられる。千里ヶ浜の南の端に鄭成功にちなむ誕生石がある。鄭芝の一族はこの辺りの[[アモイ]]などの島を根拠に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。15歳のとき、院考に合格し、[[南安市|南安県]]の[[生員]]になった。明の陪都・[[南京]]で[[東林党]]の[[銭謙益]]に師事。
 
=== 明の滅亡 ===
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[[1658年]](明[[永暦 (明)|永暦]]十二年、清[[順治]]十五年)、鄭成功は17万5千{{要出典|date=2010年5月}}の北伐軍を興す。[[軍規]]は極めて厳しく、[[殺人]]や[[強姦]]はもちろん農耕牛を殺しただけでも[[死刑]]となり、更に上官まで[[連座]]するとされた。
 
意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨にい、300隻の内100隻が沈没した。鄭成功は[[温州]]で軍を再編成し、翌年の[[3月25日]]に再度進軍を始めた。
 
鄭成功軍は[[南京市|南京]]を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった。