「片岡千恵蔵」の版間の差分

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「片岡千栄蔵」の名で、大阪八千代座で片岡仁左衛門のもと歌舞伎修行をしていた頃、仁左衛門は年に五回か六回しか舞台に出なかった。したがって弟子にもかなり時間があり、そんなときに[[市川小太夫]]に誘われて、新劇協会の稽古に行った。が、膚が合わず、新劇の稽古には結局出ずじまいだった千恵蔵に目を留めたのが、[[直木三十五]]だった。
 
[[マキノ省三]]らとともに[[連合映画芸術家協会|聯合芸術協会]]を発足させ、映画にも関係していた直木は、新人スカウトを頼まれていた。この植木の誘いで昭和2年にマキノ入り。歌舞伎界では名門出ではなかった千恵蔵にとって出世は望むくも無く、背水の陣を敷いて若い映画界へ移ることを決断したのだが、これは時代劇の他のスタアたちも同様だった。千恵蔵は「板の上でしか芝居したことがなかったので、土の上では浮いちゃって困った」と、このころの苦労を語っている<ref>ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より</ref>。
 
===千恵蔵と「片岡千恵蔵プロダクション」===