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[[東京市]][[神田区]][[宮本町 (東京市)|宮本町]](現・[[千代田区]][[外神田]]2丁目)に生まれる。[[逗子開成中学校]](旧制)を中退。
 
大正9年([[1920年]])、4月に設立され、山下公園に[[映画スタジオ|撮影所]]をもつ[[横浜市|横浜]]の映画会社「[[大正活映]]」(大活)の俳優募集に応募し、17歳で入社。「'''野羅久良夫'''」または「'''野良久良'''」の芸名をもらう。「大活」は[[ハリウッド]]での俳優経験をもつ[[トーマス・栗原]]を撮影監督として、純映画劇の製作を始める。
 
同年8月公開の、同社設立第一作『[[アマチュア倶楽部]]』で映画デビューを果たす。続いて12月公開の『葛飾砂子』と、トーマス・栗原監督作品に出演。本名「高橋英一」名義で何本かの短編理想映画に出演し、同社文芸顧問として脚本を担当していた[[谷崎潤一郎]]にかわいがられ、「'''岡田時彦'''」という芸名をもらう。