「ブラショヴ」の版間の差分

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{{世界の市
|正式名称 =ブラショ
|公用語名称 ={{Lang|ro|Braşov}}<br/>{{flagicon|Romania}}<br/>
|愛称 =
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|画像 =Brassopanorama.jpg
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|画像の見出し =ブラショ市街
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|市章 =Coa_Romania_Town_Brassó.svg
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|位置図の見出し =ブラショの位置
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|下位区分名2 =
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}}
 
'''ブラショフ'''、または'''ブラショヴ'''<ref>発音は[[国際音声記号|IPA]]:{{IPA|braˈʃov}}であるため、より原音に近いカナ転写表記は'''ブラショヴ'''となる。</ref>([[ルーマニア語]]:'''{{lang|ro|Braşov}}''' [braˈʃov]、[[ハンガリー語]]:'''ブラッショー''' '''{{lang|hu|Brassó}}''' [ˈbrɒʃːʃoː]、[[ザクセン語]]:'''{{lang|nds|Kruhnen}}'''、[[ドイツ語]]:'''クローンシュタット''' '''{{lang|de|Kronstadt}}'''、'''クローンシュタット・イム・ブルツェンラント''' '''{{lang|de|Kronstadt im Burzenland}}'''、'''クローネン''' '''{{lang|de|Kronen}}'''、中世[[ラテン語]]:'''ブラッソヴィア''' '''{{lang|la|Brassovia}}'''、'''コロナ''' または '''{{lang|la|Corona}}''')は[[ルーマニア]]のほぼ中央に位置する[[都市]]で、[[ブラショ県]]の県都。首都[[ブカレスト]]からは直線で約140キロメートル(鉄道の路線距離だと166キロメートル)離れている。
 
日本では'''ブラショフ'''という表記も見られるが、ルーマニア語はスラヴ語のように語末の v が無声化して [f] になることはない。
[[カルパティア山脈]]によって囲まれる[[トランシルヴァニア]]地方の中心的都市の一つであり、都市の建設にはドイツからこの地に植民した[[トランシルヴァニア・ザクセン人]]が深く関わった。このため、「'''クローンシュタット'''」というドイツ語名を持つ。これは英語で言うところの ''Crown City'' を意味し、中世ラテン語名の「'''コロナ'''」(''Corona'')と同じであり、市の紋章に反映されている。中世には、「ブラショフ/ブラッソ」「クローンシュタット」「コロナ」の3つの都市名が同時に使われていた。
 
[[カルパティア山脈]]によって囲まれる[[トランシルヴァニア]]地方の中心的都市の一つであり、都市の建設にはドイツからこの地に植民した[[トランシルヴァニア・ザクセン人]]が深く関わり、ザクセン人の居住する都市であった。このため、「'''クローンシュタット'''」というドイツ語名を持つ。これは英語で言うところの ''Crown City'' を意味し、中世ラテン語名の「'''コロナ'''」(''Corona'')と同じであり、市の紋章に反映されている。中世には、「ブラショ/ブラッソ」「クローンシュタット」「コロナ」の3つの都市名が同時に使われていた。
 
市では毎年、[[チェルブル・デ・アウル国際音楽祭]]が開催されている。
 
== 歴史 ==
現在ブラショヴがある土地にはハンガリー人の[[征服定住]]以前には[[ブルガリア人]]が居住しており、当時、すでに相当な規模の都市であったと考えられている。征服定住後、[[ハンガリー王国]]の初代[[国王]][[イシュトヴァーン1世]]がツェンク山(ハンガリー語 {{lang|hu|Cenk}} [ˈt͡sɛŋk]、ドイツ語 {{lang|de|Zinne}}、{{lang|de|Kapellenberg}}、ラテン語 {{lang|la|Mons Cinum}}、ルーマニア語 トゥンパ {{lang|ro|Tâmpa}} [ˈtɨmpa])にブラッソヴィアという城塞を築かせた。この城塞は[[1211年]]にハンガリー王[[エンドレ2世]]によって[[ドイツ騎士団]]に与えられた。
12世紀、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ゲーザ2世]]に招かれたトランシルヴァニア・ザクセン人たちは、鉱業と農業に従事して、町の発展に貢献した。移民は主に[[ラインラント]]、[[フランドル]]、[[モゼル県|モゼル]]地域から来たが、その他[[テューリンゲン]]、[[バイエルン州|バイエルン]]、[[ワロン地域|ワロニア]]、そして[[フランス]]からもやって来た。文書におけるブラショフへの最初の言及は1252年、''Terra Saxonum de Barasu''(「バラスのサクソン人の国」)の記述である。
 
12世紀、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ゲーザ2世]]に招かれたトランシルヴァニア・ザクセン人たちは、鉱業と農業に従事して、町の発展に貢献した。移民は主に[[ラインラント]]、[[フランドル]]、[[モゼル県|モゼル]]地域から来たが、その他[[テューリンゲン]]、[[バイエルン州|バイエルン]]、[[ワロン地域|ワロニア]]、そして[[フランス]]からもやって来た。文書におけるブラショへの最初の言及は1252年、''Terra Saxonum de Barasu''(「バラスのサクソン人の国」)の記述である。
 
1211年、ハンガリー王[[アンドラーシュ2世|エンドレ2世]]の命令で、[[ドイツ騎士団]]がハンガリー国境を守るための要塞を[[ブルツェンラント]]([[:en:Burzenland]]、ハンガリー語:{{lang|hu|Barcaság}} [ˈbɒrt͡sɒʃɑ̈ːɡ] バルツァシャーグ、ルーマニア語:{{lang|ro|''Ţara Bârsei''}} ツァラ・ブルセイ)に築いた。騎士団は1225年に立ち退かせられたが、彼らが連れてきた入植者たちは、ブラショの3か所の移住地に残った。
 
[[ファイル:BrasovTroster.jpg|thumb|left|250px|クローンシュタット(1666年発行の本の挿絵)]]
ブラショのザクセン人たちは主に商売と手工業に長けていた。町が[[オスマン帝国]]と西欧とを結ぶ交易路上にあったことから、特権を授けられたザクセン人商人が商売の利益を蓄え裕福になり、政治力を持つようになっていった。財を成した彼らが市内に好みの建築物を造っていった。また、町の周辺には、中世の慣習により様々な職人たちのギルドによって維持されるいくつかの塔を含めた要塞が建築され、頻繁に拡大された。要塞の一部は最近、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の資金で復元されている。
 
一方で、ドイツの植民地であるクローンシュタットにおいて、[[ルーマニア人]]は市民とみなされていなかった。彼らは市内で商いをすることすら許されていなかった。また、ルーマニア人の信仰する[[正教会]]はトランシルヴァニア中で公式に認められていなかった。結果として彼らは羊飼いか密輸で生計をたてるようになった。
町の外のシュケイ(ルーマニア語:{{lang|ro|Șchei}} シュケイ、{{lang|ro|Șcheii Brașovului}} シュケイィ・ブラショヴルイ、{{lang|ro|Bulgărimea}} ブルガリメァ、ザクセン語:{{lang|nds|Belgerei}} ベルゲレイ、ドイツ語:{{lang|de|Obere Vorstadt}} オーベレ・フォーアシュタット、{{lang|de|Wallachische Vorstadt}} ヴァラヒッシェ・フォアシュタット、ハンガリー語:{{lang|hu|Bolgárszeg}} ボルガールセグ)と呼ばれる地区に住まわされたルーマニア人は、17世紀と19世紀には、国民的、政治的、文化的な権利のための運動をし、その努力は他の行政区のルーマニア人と地元のギリシアの貿易商の共同体によって支えられた。1838年には最初のルーマニア語の新聞、「ガゼッタ・トランシルヴァニエイ」(''Gazeta Transilvaniei'' )が発行された。[[神聖ローマ皇帝]][[ヨーゼフ2世]]の時代に、10年間だけ、ようやくルーマニア人はクローンシュタット市民として認められた。
 
[[ファイル:Kronstadt vom Schlossberg 1900.jpg|thumb|280px|1900年ごろのクローンシュタット]]
1918年にトランシルバニア全体がルーマニアに併合されるが、ザクセン人たちは新国家の中でもその地位を脅かされることはなかった。2つの大戦に挟まれた時代、ブラショは経済・文化の繁栄を迎えた。しかし[[第二次世界大戦]]後、多くのドイツ系市民は[[ソビエト連邦]]によって追放され、彼らは共産主義体制のルーマニアから旧[[西ドイツ]]へ移住していった。また、1940年には4000人を数えた[[ユダヤ人]]は、戦後に[[イスラエル]]へ移住する者が多かったため減少し、現在230人ほどとなっている。
 
1950年から1960年までの一時期、町はソビエトの指導者[[ヨシフ・スターリン]]にちなんで、'''スターリン市'''(ルーマニア語:{{lang|ro|Oraşul Stalin}} オラシュル・スタリン、ハンガリー語 {{lang|hu|Sztalinváros}} スタリンヴァーロシュ、ドイツ語:{{lang|de|Stalinstadt}} シュターリーンシュタット)と呼ばれていた<ref>[http://www.traveltoromania.com/destinations/transylvania/brasov Brasov - Travel To Romania]{{en icon}}</ref>。
共産主義政権の期間には、工業の発展が非常に加速された。[[ニコラエ・チャウシェスク]]政権下の1987年、ブラショの労働者たちは共産政権に対し暴動を起こした。だがこれは当局によって弾圧され、多数の労働者が収監される結果に終わった。
 
また、1989年の[[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]]において、ブラショでは84人の死者、236人の負傷者を出した。
 
== 人口 ==
ブラショ市の過去の人口の変遷は、国勢調査によれば、おおよそ次の通りである。
 
'''1850年''':21,782 人、内訳は[[ドイツ人]]8,874人 (40.8%)、[[ルーマニア人]]8,727人 (40%)、[[マジャルハンガリー人]]2,939人 (13.4%)、[[ロマ]]780人 (3,6%)、[[ユダヤ人]]67人 (0.3%)、その他1,242人([[ギリシャ人]]、[[ブルガリア人]]など)
 
'''1890年''':30,739人、内訳はマジャルハンガリー人10,441人 (34%)、ルーマニア人9,758人 (31.7%)、ドイツ人9,578人 (31.2%)、その他3,753人
 
'''1930年''':59,232人、内訳はマジャルハンガリー人23,269人 (39.3%)、ルーマニア人19,372人(32.7%)、ドイツ人13,014人 (22.0%)、ユダヤ人2,267人 (3.8%)、[[チェコ人]]・[[スロヴァキア人]] 267人 (0.5%) 他
 
現在、'''2002年'''の国勢調査によれば、ブラショ市の人口は、284,596人である。民族構成は以下の通り。
 
*ルーマニア人:258,042人(90.66%)
*マジャルハンガリー人:23,204人(8.54%)
*ドイツ人(ザクセン人):1,717人(0.60%)
*ロマ:762人(0.26%)
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== 経済 ==
[[ファイル:Tampabv.jpg|thumb|280px|トゥンパ山]]
ブラショでの産業の発達は、[[戦間期]]に、[[第二次世界大戦]]でソビエト連邦に対して使われることになった最初のルーマニアの戦闘機を生産した飛行機製造工場「IARブラショ」([[:en:Industria Aeronautică Română|en]])に始まる。共産主義国となった後、この工場は農業機械の製造工場に変わり、名前もブラショトラクター工場({{lang|ro|Uzina Tractorul Braşov}}、国際的にはユニヴァーサル・トラクター・ブラショとして知られる)と変わった。共産政権時代は[[重工業]]が特に重要視され、工業化が速められて、国内の他の地域から多くの労働者が呼び寄せられた。
 
ブラショにはドイツの[[マン (企業)|マン社]]のトラックを製造する車両メーカー、ロマン社([[:en:Roman (vehicle manufacturer)|en:Roman]])もあり、重工業は今もまだ発達している。
産業基盤は近年低下しているが、ブラショは今もなお、農業用トラクターと機械、油圧変速機、自動車部品、ボールベアリング、ヘリコプター、建材、工具、家具、織物、靴、化粧品を製造する場所である。また、チョコレート工場と大きな醸造所もある。
特に製薬産業は最近、[[グラクソ・スミスクライン]]がブラショに生産工場を設立し、更なる進展を経た。
 
ルーマニアの他の主要都市と同じく、不動産価格が著しく増大し続けている。そして最近の[[欧州連合]]への加入、間もなく完成する空港などを材料に、投資家心理は高まり続けている。
 
== 交通 ==
ブラショの交通機関ネットワークは46のバス路線とトロリーバス線があり、十分に発達している。ポヤナ・ブラショ(近郊の冬のリゾート地)に接続する定期バス路線もある。1987年から2006年までの間は路面電車線もあったが、能率が悪くなったので休止された。
 
鉄道の駅は市の中心のブラショ駅、市西部にあるバルトロメウ駅、南東部にあるドゥルステ駅の3つの駅の他、東部に操車場がある。
また主要道は、[[欧州自動車道路]][[E60号線]]、国道DN1号線が接続している。
 
2008年4月にブラショ空港<ref>[http://www.aeroportbrasov.ro ブラショ空港ウェブサイト] {{ro icon}} / {{en icon}}</ref> の建設が開始され、2010年に完成する予定である。
 
== 観光 ==
[[ファイル:BisericaNeagradinPtaSfatului.jpg|thumb|250px|黒の教会]]
ルーマニアのほぼ中央に位置するブラショは、各地点への旅行のよい出発点である。古い町自体も良く保存され、トゥンパ山(960m)の山頂へ登ると町並みが一望できる。
主な観光地は以下の通り。
 
* 黒の教会({{lang|ro|[[:en:Biserica Neagră]]}})- [[ゴシック建築|ゴシック様式]]の建物。1385年ごろに破壊された以前の教会に代わり、1477年に作られた。1689年、[[オスマン帝国]]との戦いで[[ハプスブルク帝国]]軍が侵入してきた際の大火の煙で黒くなったことにより、その名がつけられた<ref>{{lang|ro|Virgil Vătăşianu, ''Istoria artei feudale în ţările romîne'', Vol.I, Editura Academiei RPR, Bucharest, 1959.}} {{OCLC|536121}}, p.228, 526</ref>。
* カーサ・スファトゥルイ([[:ro:Casa Sfatului]]、評議会の家)- 昔の市役所。500年以上の間、ブラショの行政機関が置かれていた。現在は歴史博物館になっている。
* ブラショ要塞 ({{lang|ro|Cetăţuia Braşovului}})- 13世紀から15世紀にかけて築かれた。
* シュケイ(またはスケイ)地区({{lang|ro|[[:en:Şcheii Braşovului|Şchei, Schei]]}})- 古い城壁に囲まれた町の外側の、古くはブルガリア人、その後ルーマニア人の居住地であった区域。地区から要塞の中への出入り口であったシュケイ門(1827年改築)、エカテリーナの門(1559年建設、その後一部改築)が現存している<ref>[http://www.brasovtravelguide.ro/en/brasov/sightseeing/gates.php Gates - Brasov Travel Guide]{{en icon}}</ref>。
* [[聖ニコラエ聖堂 (ブラショ)|聖ニコラエ教会]] ({{lang|ro|Biserica Sfântul Nicolae din Braşov, [[:en:St. Nicholas Church, Braşov]]}})- シュケイ地区にある、14世紀にさかのぼる教会。
* ルーマニアの最初の学校の博物館({{lang|ro|Muzeul primei şcoli româneşti}}, [[:en:First Romanian School]])- 聖ニコラエ教会の敷地内にある、ルーマニア人のための初めての学校。ルーマニア語で印刷された様々な最初の本と、最初の印刷機が展示されている。
* トゥンパ山({{lang|ro|[[:en:Tâmpa]]}})- 市の真ん中の、標高960メートル(995メートルとしている情報源もある)の山。旧市街中心部の近くの観光地。登るルートはいくつかあり、ケーブルカーでも登れる。頂上にはレストランがある。
 
また、近郊の[[ブラン城]]へ行くバスもブラショから出ている。
 
== スポーツ ==
* [[FCブラショ]] - サッカークラブチーム
* ルルメントゥル・ブラショ - ハンドボールクラブ
* CSUブラショ - バスケットボールクラブ
* CFRブラショ - ラグビークラブ
 
== 出身有名人 ==
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{{DEFAULTSORT:ふらしよふ}}
[[category:ブラショ|*]]
[[Category:ルーマニアの都市]]