「中島知久平」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Thebankerx (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Thebankerx (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
80行目:
アメリカの国力を知るところから、当初は日米戦争には消極的だったが、開戦後は「米軍の大型爆撃機が量産に入れば日本は焼け野原になる」と連戦連勝の日本軍部を批判し、[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナルの争奪戦]]では日本の敗戦を予想して、敗勢挽回策として[[Z飛行機]](いわゆる「[[富嶽]]」)を提言するが44年まで無視され、時期に遅れて計画は放棄された。
 
近衛内閣では鉄道大臣を務め、昭和13年([[1938年]])12月2日に鉄道幹線調査分科会をつくり、その幹線構想は戦後の[[新幹線]]に影響を与えた。その組閣3ヶ月後発足した「[[大政翼賛会]]」は幕府的、ファッショ的で立憲政治を侵すとして、強力な政党を作ろうとしたが、終戦まで果たせなかった。
 
昭和20年([[1945年]])8月17日[[東久邇宮]]内閣で軍需相、[[軍需省]]廃止で8月20日商工相。同年、元[[立憲民政党]]総裁の[[町田忠治]]に呼び掛けて新党の設立を計画するが、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により[[A級戦犯]]に指定の情報(指定は12月2日)で中止。それ以前の11月26日に院内会派の[[無所属倶楽部]]の結成に参加<ref>[[中谷武世]] 著 『戦時議会史』 民族と政治社、(昭和49年)、538-539頁。</ref>。