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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 足利 満詮
| 画像 = Ashikaga_Mitsuakira.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 足利満詮像([[京都市]][[大徳寺]][[養徳院]]蔵)
| 時代 = [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]、[[室町時代]]
| 生誕 = [[正平 (日本)|正平]]19年/[[貞治]]3年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]([[1364年]][[7月6日]])
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| 改名 = 乙若丸(幼名)、満詮、勝山道智(法名)
| 別名 = 小川殿(通称)
| 諡号 = 養徳院贈左府
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = 従三位参議。従二位[[権大納言]]。贈従一位左大臣
| 幕府 = [[室町幕府]]
| 主君 = 足利義満→義持
| 氏族 = [[足利氏]]
| 父母 = 父:[[足利義詮]]、母:[[紀良子]]
| 兄弟 = [[足利千寿王|千寿王]]、[[足利義満|義満]]、[[柏庭清祖]]、'''満詮'''、ほか[[廷用宗器]]、[[宝鏡寺殿]]
| 妻 = 正室:[[藤原誠子]]
| 子 = [[持円実相院増詮]]、[[足利三宝院快|義快]]、[[足利義賢|義賢浄土寺持弁]]、[[地蔵院持円]]、[[安禅寺比丘尼]]
| 特記事項 =
}}
'''足利 満詮'''(あしかが みつあきら)は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[室町時代]]にかけての[[武将]]。[[室町幕府]]第2代将軍・[[足利義詮]]の4男。母は[[紀良子]]。三代将軍[[足利義満]]の同母弟にあたる。父・義詮と兄・義満より1字ずつ賜って'''満詮'''と名乗る。
 
'''足利 満詮'''(あしかが みつあきら)は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]・[[室町時代]]の[[武将]]。[[室町幕府]]第二代将軍・[[足利義詮]]の四男。母は[[紀良子]]。三代将軍[[足利義満]]の同母弟にあたる。父・義詮と兄・義満より1字ずつ賜って'''満詮'''と名乗る。
 
== 生涯 ==
幕閣にあって常に兄を陰から支えるような立場であり、[[永和 (日本)|永和]]4年([[1378年]])に義満が[[東寺]]に出陣した際には数百の兵を率いて参陣している。生母の紀良子とともに武者小路の小川第に住み、応永9年([[1402年]])に従三位[[参議]]、同10年([[1403年]])には従二位権大納言と順調な出世を遂げる。同年、小川第にて、義満自らの手による剃髪をもって[[出家]]、法名を勝山道智と称す。同23年([[1416年]])の[[上杉禅秀の乱]]の際は、ためらう将軍[[<ref name="足利義持|満p225"> 臼井信持]]に対し、早く[[鎌倉公方]][[ 著『人物叢書‐足利持氏|持氏]]を救援するよう進言している(『[[看聞日記]]義満吉川弘文館、198910月29日条)。同25年に病没し、[[等持院]]にて荼毘に付された。その葬儀の際には「諸人これを惜しむこと父の如し」とまで言われたという。贈従一位[[左大臣]]謚号は養徳院とされたp.225</ref>
 
name="生母の紀良子とともに武者小路の小川第に住み、応永9年([[1402年]])に従三位[[参議]]、応永10年([[1403年]])12月には従二位権大納言と順調な出世を遂げるが、12月7日に小川第にて義満自らの手による剃髪をもって[[出家]]し、法名を勝山道智と称した<ref name="足利義満p225"/>。
 
応永23年([[1416年]])の[[上杉禅秀の乱]]の際は、ためらう甥の第4代将軍・[[足利義持|義持]]に対し、早く[[鎌倉公方]]・[[足利持氏|持氏]]を救援するよう進言している<ref group="註">『[[看聞日記]]』同年10月29日条によると「武衛(持氏)は御烏帽子々たり、いかでか見放し申されべけんや、且つまた敵方鎌倉すでに一統の上は、京都へ謀叛を企てること測りがたきものか、そのためにも扶持申せらるべきの条しかるべきかの由」と意見を述べたという。</ref>。
 
応永25年(1418年)5月14日に病没し、[[等持院]]にて荼毘に付された。享年55。贈従一位[[左大臣]]、謚号は養徳院贈左府とされた<ref name="足利義満p226"> 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.226</ref>。
 
== 人物 ==
満詮は義満の同母弟として諸大名の敬愛を受けたとされ<ref name="足利義満p225"/>、その葬儀の際には「諸人これを惜しむこと父の如し」とまで言われたという<ref name="足利義満p226"/>。
 
満詮の室に[[藤原誠子]]があり、一子[[持円]]を産んだが、義満はまだ満詮存命中の応永13年にこれを召し出して、同年一子[[梶井義承|義承]]を産ませている。生涯を通して破天荒な女性関係を持ち続けた義満と、常に兄に従順であった満詮との対照的な生き様を物語るエピソードである。
 
満詮の子女はいずれも僧籍に入ったため、子孫は残らなかったという<ref name="足利義満p226"/>。
 
== 官歴 ==
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*[[1402年]](応永9年)1月6日、正四位下に昇叙。左兵衛督如元。3月28日、参議に補任。8月21日、従三位に昇叙。8月22日、参議を辞す。
*[[1403年]](応永10年)6月14日、権中納言に転任。12月3日、従二位に昇叙し、権大納言に転任。12月7日、出家。
 
== 脚注 ==
=== 註釈 ===
{{Reflist|group="註"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
;書籍
*臼井信義 『足利義満』 [[吉川弘文館]]、ISBN 4-642-05150-3
* [[伊藤喜良 ]]『足利義持』 (人物叢書)吉川弘文館、iSBN[[2008年]] ISBN 978-4-642-05246-7
* [[臼井信義 ]]『足利義満』 [[吉川弘文館人物叢書、[[1989年]]([[平成]]元年)新装版) ISBN 4-642-05150-3
;史料
* 『[[看聞日記]]』
 
{{DEFAULTSORT:あしかか みつあきら}}
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[[Category:1364年生]]
[[Category:1418年没]]
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