「長岡護美」の版間の差分

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[[1872年]](明治5年)から[[1879年]](明治12年)まで、アメリカを経て[[ケンブリッジ大学]]に留学する。帰国後、旧熊本藩細川家から分家し、[[華族]]に加えられる。[[1880年]](明治13年)、[[外務省]]に入省して[[ベルギー]]や[[オランダ]]の[[特命全権公使|公使]]、[[1882年]](明治15年)、[[元老院議官]]には就任する。[[1884年]](明治17年)7月8日、[[男爵]]。[[1890年]](明治23年)7月から翌年10月、[[1897年]](明治30年)7月から1906年(明治39年)4月まで貴族院議員をつとめた。[[1891年]](明治24年)4月23日には子爵に陞爵。1906年1月24日、麝香間祗候となる<ref>『官報』第6769号、明治39年1月25日。</ref>。
 
養子に、甥(護久の次男)の[[長岡護全|護全]][[長岡護孝|護孝]](もりたか、実父は[[細川利]]の婿養子・[[長岡護孝|護孝細川利文]]夫人は[[細川護成]]の娘・英子)がいる
 
== 脚注 ==