「仏印進駐」の版間の差分

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== 背景 ==
[[1937年]]の[[日中戦争]]勃発以降、[[中華民国]]の[[蒋介石]]政権に対して行われていた[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国]]などによる軍事援助は、いわゆる[[援蒋ルート]]を通じて行われていた{{sfn|立川京一|1999|pp=42}}。特にフランス領インドシナを経由するルート(仏印ルート)は4つの援蒋ルートの中で最大のものであった{{sfn|立川京一|1999|pp=42}}。日本はフランス政府側に対して繰り返しルートの閉鎖を申し入れていたが、受け入れられなかった{{sfn|立川京一|1999|pp=42}}。
 
 
== 北部仏印進駐 ==
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8月末には交渉が妥結し、[[松岡・アンリー協定]]が締結された。この中では[[極東]]における日本とフランスの利益を相互に尊重すること、フランス領インドシナへの日本軍の進駐を認め、さらにこれにフランス側が可能な限りの援助を行うこと、日本と仏印との経済関係強化が合意された{{sfn|立川京一|1999|pp=43}}。
 
9月22日には現地の両軍司令部間での軍事協定([[西原・マルタン協定]])が締結され、翌23日から正式な進駐が開始された。しかし、[[参謀本部]]第1部長[[富永恭次]]少将の強引な指示の下に進駐を開始した数日間、ドンダン要塞など各地で、ヴィシー政権の決定を受け入れず、日本軍の進駐に反対する一部のフランス軍との間で戦闘が発生した。日本側でも当初から戦闘を想定し、戦車部隊などを伴い武力制圧可能な構えで進駐を行ていた。ドクー総督は「日本軍と戦ってはならぬ。それではインドシナを根こそぎ取られてしまう」と指令して9月25日に停戦させた{{sfn|谷川栄彦|1967|pp=736}}。停戦までに数百人の死傷者が出ている。その後[[ハノイ]]など重要拠点に進駐した日本軍は、紅河以北にある仏印国内の飛行場や港湾の利用権を獲得し、援蒋ルートや中華民国への攻撃に利用した{{sfn|立川京一|1999|pp=43}}{{sfn|立川京一|1999|pp=45}}。
 
11月25日からは[[タイ王国]]とフランス領インドシナ間の国境紛争が勃発した<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19401125a.html 昭和15年(1940年)11月25日タイ・仏領インドシナ国境紛争] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>([[タイ・フランス領インドシナ紛争]])。陸上での戦いではタイが優勢だったものの、海上での戦いでフランス側が勝利した。タイとフランスは第三国に仲介を求めていたが、アメリカやドイツはこれに乗り気ではなく、結果として日本が仲介役を行うことになった。1941年5月9日に締結された[[東京条約]]では、フランス領インドシナが[[カンボジア]]と[[ラオス]]をタイに割譲するという合意が成された。これは領土・権益の保全を定めた、先の松岡・アンリー協定に反する内容であったが、フランスはこれを受け入れざるを得なかった{{sfn|立川京一|1999|pp=44}}。
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== 南部仏印進駐の日米関係への影響 ==
野村大使が南部仏印進駐後アメリカ側の反応が明らかに悪化したと観測しているように、南部仏印進駐後のアメリカの態度は極めて強硬なものとなった。8月1日、アメリカは「全侵略国に対する」石油禁輸を発表したが、その対象に日本も含まれていた。またイギリスも追随して経済制裁を発動した。これらの対応は日本陸海軍にとって想定外であり、特に海軍は石油備蓄が一年半分しか存在しなかった{{sfn|小谷賢|2009|pp=123}}。当時の石油備蓄は一年半分しか存在せず、海軍は石油欠乏した状態の中でアメリカから戦争を仕掛けられることを怖れるようになり、海軍内部における早期開戦論が高まっていった{{sfn|小谷賢|2009|pp=123-124}}。
 
8月2日には野村大使がアメリカの某閣僚と会談したが、その際に[[コーデル・ハル]]国務長官がひどく失望していると伝えられた<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410802a.html 昭和16年(1941年)8月2日野村大使、某米閣僚と懇談、野村は仏領インドシナ進駐について説明] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>。アメリカ側は以前のフランス領インドシナ中立化案についての回答を求めたが、日本は南部仏印進駐が平和的自衛的措置であるとして、日中戦争終了後に撤退するという回答を行った<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410805a.html 昭和16年(1941年)8月5日豊田外務大臣、野村大使に対し、ルーズヴェルト米大統領の仏領インドシナ中立化申し入れに対する日本側回答提示を訓令] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>。ハル国務長官はこの回答が申し入れに対する回答になっていないと拒絶し、日本が武力行使をやめることによって初めて日米交渉が継続できると伝えた<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410809d.html 昭和16年(1941年)8月9日野村大使・ハル米国務長官会談、8月6日の日本側回答に対する回答について] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>。
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その後も日本とアメリカの交渉は平行線をたどり、10月2日にはハル国務長官が「[[ハル四原則]]」<ref>((1)すべての国家の領土と主権を尊重すること、(2)他国の内政に干渉しない原則を守ること、(3)通商の平等を含めて平等の原則を守ること、(4)平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状を維持すること)</ref>の確認と、中国大陸およびフランス領インドシナからの撤退を求める覚書を手交した<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19411002b.html 昭和16年(1941年)10月2日野村大使・ハル米国務長官会談、ハルは、4原則の確認と、仏領インドシナ及び中国からの撤兵を要求する覚書及び、日米首脳会談についての回答を手交] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>。日本側はハル四原則に「主義上」は同意するが、「実際ノ運用」については留保すること、中国大陸からは日中の和平が成立した後に撤退すること、フランス領インドシナからの撤退については、日中の共同防衛が実現した後に行うと回答した<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19411006a.html 昭和16年(1941年)10月6日豊田外務大臣、野村大使に対し、大局的見地より国交調整を図るという日本側の趣旨を徹底するよう訓令] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>。日本側は日米の諒解案の一つ「[[乙案]]」をアメリカ側に提案することになったが、[[東郷茂徳]]外相は乙案の中に南部仏印駐屯の日本軍を北部に移駐させる案を挿入するよう訓令した<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19411120e.html 昭和16年(1941年)11月20日東郷外務大臣、野村・来栖両大使に大使、「乙案」に挿入すべき南部仏領インドシナ撤兵に関する条項について説明] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>。しかしこの提案はアメリカおよびイギリス、オランダ、オーストラリアにとっては不満のある内容であり<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19411124a.html 昭和16年(1941年)11月24日東郷外務大臣、野村・来栖両大使に対し、「乙案」の徹底を訓令] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>、11月26日にはいわゆる[[ハル・ノート]]がアメリカ側から手交された。
 
11月18日には野村大使、[[来栖三郎 (外交官)|来栖三郎]]特命大使とルーズベルト大統領の会談が行われたが、この席でハル・ノートが日本政府を痛く失望させたという日本側に対し、ルーズベルト大統領は「日米会談開始以来、まず日本の南部仏領インドシナ進駐により冷水を浴びせられた」とし、またハル国務長官も『暫定協定』が失敗に終わったのは、「日本が仏領インドシナに増兵することによって他国の兵力を牽制した」ことが原因の一つであると日本側の対応を非難した<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19411128b.html 昭和16年(1941年)11月28日野村・来栖両大使、ルーズヴェルト米大統領と会談] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>。12月2日にはハル国務長官が北部仏印に対する日本軍の増派が行われていると非難し、日本側の対応を改善するよう求めた<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19411202a.html 昭和16年(1941年)12月2日野村・来栖両大使、ハル米国務長官と会談] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>。日本側はこの増派は協定による合意内であると反論したが、日本政府はこの頃すでに対米戦を決定していた。[[12月8日]]に日本はイギリスとアメリカに[[宣戦布告]]し、ここに[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])が勃発することとなる。
 
==戦時下のフランス領インドシナ==
{{main|{{仮リンク|第二次世界大戦下のフランス領インドシナ|en|French Indochina in World War II}}}}
フランス領インドシナは本国から遠く、軍備も極めて弱体であった{{sfn|立川京一|1999|pp=50-51}}。しかも本国がドイツに敗れたため、独力で植民地を維持することは困難であった{{sfn|立川京一|1999|pp=50-51}}。そのため多くの植民地がヴィシー政府から[[自由フランス]]支持に転向していった。ヴィシー政府および植民地政府は植民地を維持するため、日本と協力する道を選んだ。
 
また日本側も植民地政府を温存する方針をとり、1941年11月6日の大陸指991号、11月15日の「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」による[[大本営政府連絡会議]]の決定でも確認されている{{sfn|白石昌也・古田元夫|1976|pp=4}}。しかしこの方針は「[[大東亜戦争]]」の目的であるとされた植民地支配からの「大東亜解放」とは矛盾した方針であったが、陸軍は「人種戦争の回避」という方針のためであるとして対応した{{sfn|白石昌也・古田元夫|1976|pp=5}}。
 
この協力関係はフランス領インドシナ政府側にとって不利ばかりではなく、経済面では有利に運ぶこともあった。独立運動家にとっては日本軍の登場は新たな支配者の出現であり、現代の[[ベトナム]]では「一つの首に二つの首枷」と評されている{{sfn|立川京一|1999|pp=53}}。
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=== 軍事協力 ===
太平洋戦争開始後も、従前のヴィシー政権による[[植民地]]統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。情報交換や[[掃海]]作業などでは両軍で協力が行われている{{sfn|立川京一|1999|pp=47-48}}。
 
 
もっとも、仏軍が日本に対して攻撃しないように念のための処置として、フランス駐留軍の軍備は制限され、主要海軍艦艇の武装解除などが行われている。日本軍はフランス側の許可を得てサイゴン(現在の[[ホーチミン市]])の放送局を利用し、ジャワやインドに対する謀略放送を行った{{sfn|立川京一|1999|pp=48}}。
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3月9日に仏印処理は実行されたが、その動機は米軍上陸が迫ったという判断によるものであった{{sfn|白石昌也・古田元夫|1976|pp=26}}。作戦終了後、安南国([[阮朝]])の[[バオ・ダイ]](保大帝)を担ぎ出し、[[ベトナム帝国]]の独立を宣言させた。しかし[[ベトナム人]]にとって極めて評判が悪かったバオ・ダイの擁立は、親日的な独立運動家に失望を与えた{{sfn|立川京一|1999|pp=53}}。同年[[8月14日]]に日本が連合国に対して降伏を予告すると、3日後の[[8月17日]]に[[ベトナム八月革命]]が勃発し、[[日本の降伏|日本が降伏文書に調印]]した[[9月2日]]には、阮朝は打倒されて[[ベトナム民主共和国]]が樹立された。しかしフランスは植民地支配を復活させるべく、インドシナ政府を復活させようとした。1946年には[[第一次インドシナ戦争]]が勃発し、長い「[[インドシナ戦争]]」の時代を迎えることになる。
 
== ==
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== 参考文献 ==
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* {{Cite journal|和書|author= 白石昌也・古田元夫|title=太平洋戦争期の日本の対インドシナ政策--その二つの特異性をめぐって|date=1976 |publisher=アジア政経学会|journal=アジア研究 |volume=23(3) |pages=1-37|url=http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I1745922-00|ref=harv}}
*[http://www.jacar.go.jp/nichibei/index2.html 「公文書に見る日米交渉~開戦への道~」][[アジア歴史資料センター]]
 
== 注記 ==
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==外部リンク==
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* [[南進論]]
* [[日米交渉]]
*{{仮リンク|第二次世界大戦下のフランス領インドシナ|en|French Indochina in World War II}}
* [[西原一策]]
* [[澄田らい四郎]]