「内田常雄」の版間の差分

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もともと、反主流派の一角である[[清和政策研究会|福田派]]に属しながら反主流派と距離を置き三木に近い立場であった[[松野頼三]]の幹事長起用を三木は望んだが、これに対して反主流派が猛反発していた<ref name="mayumi"/>。そこで、[[自由民主党政務調査会|政務調査会長]]への起用が予定されていた内田を幹事長に転じさせることで両派の妥協が成立した。内田は党務のキャリアが乏しく、幹事長ポストへの指名は予想外のものであった。しかも幹事長となれば執行部の代表として自ら属する反主流派の大平派との対立を余儀なくされかねなかったため、就任に対して強く難色を示した。結局説得により引き受けることになったが、就任記者会見で「道を歩いていたら、[[マンホール]]に落ちたような気分だ」と思わず心境を吐露し、「'''マンホール幹事長'''」と揶揄された。
 
内田は幹事長としてその年の暮れの[[第34回衆議院議員総選挙|第34回衆院選]](ロッキード選挙)の采配を振ったが、議席を減らしたため、三木らとともに辞任執行部から退いた。この選挙で同じ山梨全県区から自民党無派閥で出馬し初当選した[[堀内光雄]](後に宏池会会長)が、内田の死後に宏池会入りして派閥の地盤を継承している
 
[[1977年]][[12月29日]]、死去。衆議院での弔辞は同じ山梨全県区選出の[[鈴木強]]([[日本社会党]])<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/084/0001/08402090001007c.html 衆議院会議録情報 第084回国会 本会議 第7号]</ref>。