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'''王粛'''(王肅、おう しゅく、[[464年]]([[大明 (南朝宋)|大明]]8年) - [[501年]]([[景明]]2年))[[中国]][[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[政治家]]。[[字]]は'''恭懿'''魏晋南北朝時代を代表する貴族である琅邪王氏の出身で、祖先に[[東晋本貫]]の宰相[[王導琅邪郡]][[臨沂県]]がいる
 
== 経歴 ==
[[王奐]]の子として生まれた。[[斉 (朝斉)|斉]]の[[武帝 (南朝斉)|武帝]]にするもえて父と兄弟著作郎・太子舎人・司徒主簿・秘書丞誅殺され身が危うくなっ歴任しために出奔、[[北魏493年]]に亡命した斉の[[493年永明]]11年、北魏の[[太和 (北魏)|太和]]17年)、父と兄弟が処断されため、[[永明北魏]]11年)に亡命した。[[孝文帝 (北魏)|孝文帝]]に用いられ、[[尚書令]]となり、朝廷の儀礼や制度の整備に尽力した。<!--孝文帝の妹・彭城公主を妻とした。-->
 
[[501年]]([[景明]]2年)、寿春で死去した。享年は38。侍中・司空公の位を追贈された。[[諡]]は宣簡といった。
 
== 子女 ==
*王紹(字は三帰、太子洗馬・員外常侍・中書侍郎)
*王理(東魏の[[武定 (東魏)|武定]]末年に著作佐郎)
*王夫人([[宣武帝]]の後宮に入って夫人となった)
*王嬪([[孝明帝]]の後宮に入って嬪となった)
 
== 伝記資料 ==
*『[[魏書]]』巻63 列伝第51
*『[[北史]]』巻42 列伝第30
 
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