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こうした政敵への讒言や、武帝に対する阿諛追従のため、佞臣として忌み嫌われていたことが『[[晋書]]』に見られる。武帝の弟である斉王[[司馬攸]]もその一人で、「中書監荀勗・[[侍中]]馮紞、皆自ら進み諂諛するに、攸、素より之を疾む」とある。聡明で政治にも明るい司馬攸は、暗愚な太子の補佐・さらには武帝の後継に相応しい人物として、朝の内外を問わず期待を寄せられていた。しかし荀勗は馮紞とともに言葉巧みに武帝へ働きかけ、司馬攸をその領地である斉へ赴任させてしまった。司馬攸は憤りから病にかかり死去した。また賈充の娘[[賈南風]]を、皇太子[[恵帝 (西晋)|司馬衷]]に娶わせるよう武帝に勧めたことは、後に西晋王朝を崩壊に導く結果となったことから、後世強く批判されることになった。武帝自身も当初からこの結婚には気が進まず、その後も彼女を廃そうと考えたこともあったが、その度に荀勗が言葉を尽くして思いとどまらせたといわれている。
 
その後も、武帝の側近中の側近として重用されたが、それをいいことに傲慢な態度をとることが多かったため、遂に武帝の寵愛を失い、彼自身も[[尚書令]]への昇進という形ではあったが、機密から遠ざけられた。憤懣やる方なく、人に昇進を祝われるも「我が鳳凰池を奪われたというのに、何を祝うというのか!」としたという。289年11月に死去した。
 
その人格品行や言動には批判が多い一方で、文化的事業に関する貢献は大きく、秘書監として汲郡から出土した竹書を整理したり、宮中の書籍の分類を行ったりしている。特に今日の漢籍分類の基本である「[[四部分類]]」は、彼が著した図書目録である『[[中経新簿]]』の分類が原点となっている。