「称光天皇」の版間の差分

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** 皇女(1418-?) - 天皇は認知せず
* [[内侍]]:藤原氏 - [[高倉永藤]]女
* 宮人:[[藤原氏]](伊予局・別当局) - [[持明院基親]]女、[[正親町実秀]][[猶子]]
** 皇女(1426-?)
* 宮人:[[賀茂氏|鴨氏]](紀伊局) - [[鴨祐有]]女
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== 生涯 ==
=== 即位 ===
応永18年([[1411年]])11月25日、親王宣下を受ける<ref name="足利義持p59"/>。この3日後に11歳で[[元服]]し、加冠役は第4代将軍で[[内大臣]]の[[足利義持]]が務めた<ref name="足利義持p59"/>。応永19年([[1412年]])[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]に[[後小松天皇]]の[[譲位]]を受けて[[即位]]する<ref name="足利義持p59"/>(即位日は応永21年([[1414年]])[[12月19日 (旧暦)|12月19日]])<ref name="足利義持p24"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.24</ref>。[[室町幕府]]の第3代将軍・[[足利義満]]とは[[日野家]]を挟んで[[外戚]]関係にあり、叔母の[[日野資国業子]]の妹の業子は義満の[[正室]]だった。『[[看聞日記]]』によれば、第4代将軍・[[足利義持]]が当初の諱である躬仁の「躬」の字には“身に弓があるのは難がある”として[[鄂隠慧カツ|鄂隠慧奯]]に相談し、「躬」と同音の「實」とすることにした。
 
=== 病弱と継承問題・崩御 ===
朝廷では[[後小松天皇|後小松上皇]]が[[院政]]を行っていたが、称光天皇は生来病気がちであり<ref group="註">当時の公家の日記には「禁裏御不予」(天皇の病気)の記載が多く見られる。</ref>、[[嗣子]]に恵まれなかった。応永29年([[1422年]])4月半ばから体調を崩し、6月になるとますます病気が進行した。この時の病は10月に回復したが、このため後小松上皇は後継者の不在を心配し、足利義持とも何度も相談し、そして称光天皇の弟である[[小川宮]]を東宮「儲君」事実上の皇太子)とした<ref namegroup="足利義持p168"> 伊藤喜良 著人物叢書‐足利義持本朝皇胤紹運録』『薩戒記吉川弘文館、2008年、p.168</ref>。しかし小川宮も称光天皇と同じように奇行が多く兄弟仲も悪く、さらに天皇は若くまだ継嗣皇子に恵まれる可能性もあったので<ref name="足利義持p168"/>、この後継者指名はかえって上皇と天皇の関係を険悪にする事になった<ref name="足利義持p169"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.169</ref>。小川宮は応永32年([[1425年]])2月16日に早世し、後継者は再び不在となった<ref name="足利義持p169"/>。さらに同年6月に称光天皇は上皇に対する反発から退位を企てるという行動に出ている<ref name="足利義持p169"/>。さらに天皇は内裏を出奔しようとしたため<ref group="註">天皇が琵琶法師を内裏に招いて平家物語を聞こうとしたのであるが、上皇が天皇の行為を前例がないと反対した事から始まり、天皇も上皇が仙洞で先例が無いことをたびたび行ない、下劣な身分を昇殿させていると反論し、「院中において先例なき題目(事柄)はことごとく停止せらるべきなり」と使者の[[万里小路時房]]を怒鳴りつけ、さらに「帝位についているが、一事も院(上皇)の御心に叶わず、ことに禁中が窮迫して致し方ない上は、在位に全く執心しません。国の事はしかるべき様に御計らい下さい。我が身においては、天皇の位を辞し申します」と書面を上皇に送付した。(『[[薩戒記]]』)</ref>、上皇の要請を受けた義持の仲介を受けて上皇と和睦している<ref name="足利義持p170"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.170</ref>。
 
7月、天皇は重病に倒れ、義持や[[中山定親]]らが慌てて参内するほどだったという<ref name="足利義持p171"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.171</ref>。7月29日には天皇も死を覚悟したのか、生母の資子(二位殿(称光天皇の生母)の院号定を行なうよう勅定を出している<ref name="足利義持p172"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.172</ref>。しかし義持からこれを聞いた上皇は「卒璽(軽率な行ない)であるとして難色を示して同意しなかった<ref name="足利義持p172"/>。この時は義持の説得で<ref name="足利義持p172"/>、二位殿資子には准三后宣下、光範門院の女院号が定められた<ref name="足利義持p173"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.173</ref>。8月1日になると称光天皇は重篤となり、母親の看病や義持の参内を受けた<ref name="足利義持p173"/>。このため回復の見込みは無いとして義持は葬儀の準備を始めていたほどであったが<ref group="註">御葬送路のため五条河原に浮き橋を渡すと云々、これ入道内相府(義持)の命と云々。</ref>、8月2日になると天皇は快方に向かい、8月5日には全快した。この時の病気は邪気(風邪)だったという<ref name="足利義持p174"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.174</ref>。
 
しかし天皇は若いとはいえ病弱で皇子の誕生は絶望的であった。このため上皇・義持共に後継者を[[持明院統]]天皇|崇光院]]で唯一の男児(他にも男児はいたが[[僧籍]]に入っていた)である[[伏見宮家]]の[[伏見宮貞成親王]]に求めていた<ref name="足利義持p177"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.177</ref>。しかし貞成は54歳である応永32年([[1425年]])4月にようやく親王宣下を受けるなど既にたが年齢的な問題があったため、また貞成を後継者にしようとした事で上皇・天皇間の確執が再燃したため、貞成の皇子・彦仁親王(後の[[後花園天皇]])を[[猶子]]に迎え後継者とした<ref group="註">天皇が重篤から回復した後、天皇に貞成が呪詛した事が病気の原因であると讒訴した者があり、これが原因で天皇と貞成が対立したためともされる。なお、讒言した者は南朝・[[大覚寺統]]関係者で処罰された(『[[看聞日記]]』)</ref>。
 
天皇に見るべき実績がなく、さらに室町幕府の意向で[[代始]][[改元]]が認められなかった(16年目に実現するが、その3か月後に[[崩御]]する)。
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== 人物・逸話 ==
称光天皇は行状に問題が多く、後小松上皇や足利義持をたびたび悩ませたと伝わる。主なものでは天皇は太刀や刀、弓の扱いを好んでそれをもて遊ぶ事に拘泥し、金の鞭で近臣や女官を打ち据えたため、その行状を聞いた義持が上皇に苦情を提言したり<ref name="足利義持p167"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.167</ref><ref group="註">『[[看聞日記]]』応永23年6月19日条</ref>、天皇の近くに仕えてい寵愛を受けた内侍が懐妊したのにそれを自分の子では無く他人の子だと騒ぎまくったいだため、上皇が義持に密かに調査を依頼し、その結果義持より事実無根として処理されるなどしている<ref name="足利義持p168"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.168</ref><ref group="註">『[[看聞日記]]』応永25年7月14日条から19日条</ref>。
 
== 諡号・追号・異名 ==