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'''国崎 定洞'''('''くにざき ていどう'''、[[1894年]]([[明治]]27年)[[10月5日]] - [[1937年]]([[昭和]]12年)[[12月10日]])は日本の衛生学者・[[共産主義者]]・[[社会主義者]]。社会衛生学の創始者。[[ドイツ]]で日本人の社会主義者グループを組織して、[[ドイツ共産党日本語部]]を結成した。しかし[[ビエト邦]]移住後に[[大粛清]]により処刑された。
 
== 生涯 ==
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[[1926年]]、文部省から社会衛生学研究を目的としてドイツに派遣される<ref name="kato">[http://members.jcom.home.ne.jp/072286711/Moscow.html 旧ソ連日本人粛清犠牲者・候補者一覧] ([[加藤哲郎 (学者)]]のウェブサイト)</ref>。1928年7月に[[ドイツ共産党]]に入党し、1929年にベルリンに滞在している日本人シンパ([[千田是也]]ら)とともにドイツ共産党日本語部を結成し、その責任者となる。初代社会衛生学講座教授の座を約束されていたが、同年5月に東京帝大を依願免官<ref name="kato"/>。この経緯について[[長与又郎]]や[[林春雄]]からの帰国の説得を拒否したという説もあったが、国崎は自筆の履歴書で「免官を強要せらる」「大学から追放された」と記している。研究者としての職を離れた国崎は、ベルリンで「反帝グループ」を組織した。
 
[[1932年]]に[[片山潜]]の勧めを受けて[[ソビエト連邦]]に移住し、翌年には[[東方勤労者共産大学]]の大学院に学ぶ<ref name="kato"/>。卒業後は外国労働者出版所の日本語部門に勤務。モスクワで日本人の社会主義運動関係者を支援し、[[日本共産党]]関係の活動にも従事した。しかし、モスクワの日本共産党代表である[[山本懸蔵]]は、国崎を「日本のスパイと結びついている」としてソ連当局に密告する。国崎は外国労働者出版所の役職を解かれ、[[内務人民委員部]](NKVD)の監視下に置かれた<ref name="kato"/>。大粛清のさなかの[[1937年]]8月に「日本のスパイ」として逮捕され、同年12月10日に銃殺刑に処された。ソ連は[[スターリン批判]]後の1959年に国崎の名誉を回復した<ref name="kato"/>。
 
国崎にはドイツ人の妻と娘がいたが、二人は国崎の逮捕後にドイツに強制送還される。彼女たちは消息不明となったが、戦争の時代を生き抜き、1974年になって西ベルリンに在住していたことが確認された(妻は1980年死去)。