「平将恒」の版間の差分

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兄弟である忠常が起こした[[平忠常の乱]]には加担せず、勢力を大きく減退させることは無かった。
 
[[治安 (元号)|治安]]3年([[1023年]])、[[武蔵介]]の[[藤原真枝]]が勅命に反し[[武蔵国]]にて兵を起こした。将恒は藤原真枝征伐の命を受けて相模・上総の兵を率いて豊島で戦い、藤原真枝は自害、将恒はこれを鎮圧した功で[[駿河国|駿河]]・[[武蔵国|武蔵]]・[[上総国|上総]]・[[下総国|下総]]に領地を得たという。
 
[[武蔵国]][[秩父郡]]において[[秩父氏]]を称し、将恒の子孫は[[秩父平氏]]として武蔵国各地に勢力を拡大した<ref name="aa" />。長男・[[平武基|武基]]の生母は[[武蔵武芝]]の娘(『[[西角井系譜]]』より)、次男・[[平武常|武常]]と三男・[[平常任|常任]]の生母は[[平忠通]]の娘とされる(『[[桓武平氏良文系全系図‎]]』より)。