「アリー・ハーメネイー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
超プロ住民 (会話 | 投稿記録)
超プロ住民 (会話 | 投稿記録)
49行目:
 
== 最高指導者 ==
1989年にハーメネイーが最高指導者に選出されたのは、保守派の'''闘う法学者協会'''と改革派の[[ハーシェミー・ラフサンジャーニー]]の利害の一致のためだった。彼は候補者の中で最も若く、当時大統領だったラフサンジャーニーは、改革推進において彼の協力を当てにしていた。一方、保守派の宗教・政治指導者は、余り権威のないハーメネイーが自分達の影響下に入るものと予想していた。そもそも[[ルーホッラー・ホメイニー|ホメイニー]]の後継者と指名された[[ホセイン=アリー・モンタゼリー]]が失脚してから時間がなく、ハーメネイーの最高指導者への選出は既定の路線ではなかった。ホメイニーは法学者の最高位[[マルジャエ・タクリード]]であったが、ハーメネイーは長く[[ホッジャトル・エスラーム]]にすぎず、この時昇格してもなお[[アーヤトッラー]]であり、[[マルジャエ・タクリード]]には届いていない。当初、最高指導者はマルジャエ・タクリードでなければならないとされていたため、ハーメネイーの権威に傷が付くことになったのである。
 
最高指導者となったハーメネイーは、[[1997年]]まで、政治の舞台では保守派の味方についた。ハーメネイーは、1989年から1997年まで大統領だったラフサンジャーニーに目に見える支援を与えなかった。このことは、「専門家会議」を支配するコム出身の宗教活動家側からの非難を懸念したからだとされる。その外、ラフサンジャーニーは、ハーメネイーと自分を対等と考え、彼に圧力を加えようとすらした。