「賀川豊彦」の版間の差分

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[[1914年]](大正3年)に渡米し、アメリカの社会事業、労働運動を垣間見<ref>[[木原活信]]「賀川豊彦と[[ジェーン・アダムズ]]-[[セツルメント]]をめぐって-」賀川豊彦記念松沢資料館『雲の柱』第15号,pp.8-12.1998参照</ref>[[プリンストン大学]]・[[プリンストン神学校]]に学び、[[1915年]](大正4年)にスラムでの経験を踏まえて『貧民心理之研究』を出版する。賀川はこの「穢多村の研究」で、犯罪の多い部落民が異人の子孫であるという人種起源説を主張した。後に、文中に差別思想があるとして[[部落解放運動]]関係者から批判されている。
 
[[1917年]](大正6年)に帰国すると、神戸のスラムに戻り無料巡回診療を始めた。また、米国留学中の体験から貧困問題を解決する手段として労働組合運動を重要視した賀川は、[[鈴木文治]]率いる[[友愛会]]に接触し、[[1919年]](大正8年)に友愛会[[関西労働同盟会]]を結成、理事長となった。同[[年日本基督教会]]で[[牧師]]の資格を得、[[麹町教会 (長老派)|麹町教会]]の牧師になる。

[[1920年]](大正9年)に自伝的小説『[[死線を越えて]]』を出版、一大ベストセラーとなり、賀川の名を世間に広めた。[[印税]]はほとんど関与した社会運動のために投じられた。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(灘神戸生協を経て現・[[コープこうべ]]=日本最大の生協)を設立、生活協同組合運動にも取り組んだ。また、[[武藤富男]]らと共に、キリスト教系業界紙、[[キリスト新聞]](発行元:[[キリスト新聞社]])を立ち上げた。
 
[[1921年]](大正10年)、神戸の三菱造船所(現・[[三菱重工業]][[三菱重工業神戸造船所|神戸造船所]])・[[川崎造船所]](現・[[川崎造船]]神戸工場)における大争議を指導するも、会社側の強硬な対応により敗北を喫し、これを契機に関西の労働運動において急進的な[[サンディカリスト]]の勢力が増していった。暴力を否定し、時には無抵抗主義を唱える賀川の人格主義的な主張は、{{独自研究範囲|date=2012年11月|次第に敬して遠ざけられるようになっていった}}。賀川はやがて農民運動に活躍の場を移すことになる。