「フランシスコ・デ・ミランダ」の版間の差分

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=== 南米へ ===
[[File:Recibimiento de Miranda en La Guaira.jpg|thumb|275px|left|''[[ラ・グアイラ]]でのミランダの歓待''([[19世紀]]、[[ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス]]作)。カラカス最高議会の代表任命を受けるミランダがシモン・ボリバルやミランダの支持者と共に描かれている。]]
ミランダの人生は[[ラテンアメリカ]]に於けるスペイン帝国からの独立への苦難に満ちていた。また、ミランダ自身はスペイン帝国のみならず、ラテンアメリカ地域に於ける[[ポルトガル王国]]の植民地の独立、後には[[ミシシッピ川]]から[[ホーン岬]]に至る広大な領域に広がるスペインやポルトガル植民地全てを合わせ、一個の帝国として独立させる構想思い描いていた。そして、独立後帝国は[[インカ帝国]]から名を取り、にちなんでインカと称する世襲制の皇帝に率いられ、二院制の議会置き、インカと呼び、持つ。また国号は[[クリストファー・コロンブス]]から取りコロンビアとする計画を描いていであった。
 
[[1805年]][[11月]]、ミランダは[[ニューヨーク]]へと旅行し、ウィリアム・ステファンズ・スミスと再開、彼の紹介で商人のサムエル・オグデンと出会った<ref>Atlantic Monthly, Vol. 5, No. 31, May 1860</ref>。そして、[[ワシントンD.C.]]に移動し、時の[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]トマス・ジェファーソンや[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]][[ジェームズ・マディスン]]とも個人的に話をした。その後ミランダはベネズエラ独立のための[[フィリバスター]]組織を結成した。この中には後に[[メキシコ|メキシコ合衆国]]から[[テキサス共和国]]が独立した際に暫定大統領となった[[デービッド・ガーベナー・バーネット]]も居た。そして彼はサムエル・オグデンから船を借り、現在の[[ハイチ|ハイチ共和国]][[ジャクメル]]に至った。そこで更に二艘を乗組員付きで借りた。そして、それらの船の中で[[1806年]][[3月12日]]、[[ベネズエラの国旗]]を彼は作成した。[[4月28日]]にスペイン艦隊が[[ベネズエラ]]沖に至り、ジャクメルで借りた船が沈没した。この時、6人が捕えられ、10人が死亡した。その後、当時英国領であった[[バルバドス|バルバドス島]]、[[トリニダード島]]にミランダは行き、体制を立て直した。当時の英国はミランダを裏で援助し、[[ベネズエラ総監領]]の侵略をミランダに唆した。何故ならスペイン帝国は[[ナポレオン・ボナパルト]]率いる[[フランス第一帝政]]と同盟関係にあったからである。[[8月3日]]にベネズエラに戻り、要塞を陥落させ、ベネズエラの地に彼の作った国旗を掲揚した。翌朝迄には[[コロとその港]]を占拠したものの、住民からの援助は無かった。更にスペイン王国軍が戻って来る事が予想されたため、[[8月13日|13日]]にはコロを放棄し、[[西インド諸島]]へと引き返した。[[1808年]]には英国による軍備増強が完了し、[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]率いる軍隊となったが、ナポレオンに対する[[スペイン独立戦争]]が勃発すると、軍隊はそちらに動員された。