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'''[[キディヌ朝]]'''(Kidinuid dynasty)に5人の王が出た。
 
イゲ・ハルキは古エラム時代に侵入したフルリ人と何らかの関係があると考えられている。'''イゲ・ハルキ朝'''(Igehalkid dynasty)の王は10人、またはそれ以上いると考えられるが、彼らとバビロニアとの交渉が記録に残っている。[[紀元前14世紀|紀元前1320年]]には、一時[[カッシート]]朝([[バビロン]]第3王朝)の王{{仮リンク|クリガルズ2世|en|Kurigalzu II}}に服属したが、[[紀元前13世紀|紀元前1230年]]頃には、同王朝の{{仮リンク|カシュティリアシュ4世|en|Kashtiliash IV}}を破り、更にエラム王[[キディン・フトゥラン3世]]({{lang-en-short|Kidin-Hutran III}})は[[アッシリア]]王[[トゥクルティ・ニヌルタ1世]]の圧迫によって弱体化したカッシート朝へ二度にわたって侵攻し滅亡させた。しかし間もなくアッシリア王{{仮リンク|トゥクルティ・ニヌルタ1世<!-- [[:en:Tukulti-Ninurta I]] とリンク -->|en|Kar-Tukulti-Ninurta}}と戦って破れ、バビロニアから駆逐された。
 
[[紀元前13世紀]]末から[[紀元前12世紀]]にかけて新たに'''[[シュトルク朝]]'''(Shutrukid dynasty)がおこり、バビロニアに再び進出を図った。{{仮リンク|シュトルク・ナフンテ1世|en|Shutruk-Nakhunte}}は、バビロンを陥落させてバビロニアを支配下におくことに成功した。[[マルドゥク]]神像を略奪した他、[[ハンムラビ]]法典の石碑もこの時スサへ持ち帰り、後に現代の考古学者によってスサで発見されることになる。アッシリアの政治混乱ともあいまって、エラムはこの時期オリエントで最も強大な国家となっていった。だが、間もなくバビロニアに新たに勃興した[[イシン第2王朝]](バビロン第4王朝)の英王[[ネブカドネザル1世]]によってエラム軍は打ち破られ、スサを占領されるとともにマルドゥク神像を奪還された。