「楊日礼」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
テンプレート付加、本文改変、カテゴリ改変 |
|||
4行目:
| 独自研究 = 2011-12
}}
{{基礎情報 ベトナムの君主
'''楊日礼'''(よう じつれい、Dương Nhật Lễ, ? - [[1370年]]、在位:[[1369年]] - 1370年)は、[[ベトナム]]を支配した[[陳朝]]の第8代[[皇帝]]。▼
|名=昏徳公 楊日礼
|代数=第8
|呼称=皇帝
|画像=
|説明=
|王朝=陳朝
|諱=陳日礼(陳日{{lang|zh|熞}})→楊日礼
|字=
|生年=不詳
|没年=[[大定 (陳朝)|大定]]2年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]<br>([[1370年]][[12月9日]])
|父=[[楊姜]]
|母=
|后妃=陳皇后
|陵墓=大蒙山
|元号=[[大定 (陳朝)|大定]] : [[1369年]] - [[1370年]]
|注釈=
}}
{{wikisourcelang|zh|大越史記全書/本紀卷之七|大越史記全書/本紀巻之七 陳紀}}
▲'''楊 日礼'''(よう じつれい、{{lang-vi|Dương Nhật Lễ
== 生涯 ==
第5代皇帝・[[陳明宗|明宗]]の皇太子だった[[陳昱]]の[[庶子]]であった。父の昱は本来なら第6代を継ぐはずだったが、無能だとして明宗によって廃され、昱の弟の[[陳憲宗|憲宗]]、次いで[[陳裕宗|裕宗]]が帝位についていた。1369年に子が無かった裕宗が死去すると後継者問題が起こり、[[皇太后]]になっていた[[憲慈皇后]]の後押しを受けて日礼が即位することになった。▼
『[[大越史記全書]]』によると、実父は俳優の[[楊姜]]で、日礼の母が身籠っていたときに恭粛王[[陳イク|陳{{lang|zh|昱}}]](第5代皇帝・[[陳明宗|明宗]]の長男)が目を付けて、日礼を自分の子として育てたという。
▲
日礼は即位後、自分を推挙した憲慈皇太后をはじめ、多くの皇族を次々と虐殺していった。また国政を顧みずに酒色に耽り奢侈に走るなど、無道な振る舞いが多かった。さらには姓を陳から母方の楊に改めようとしたため、陳氏の皇族やその支持者たちは皇族の[[陳芸宗|藝宗]]を奉じて1370年にクーデターを決行した。1度目のクーデターは鎮圧されたが、2度目は多くの離反者が出て日礼が捕らえられ、息子とともに処刑された。▼
▲
死後、陳一族の資格並びに皇帝の資格無しとして姓を楊に改められ、[[諡号]]も存在しない。日礼のわずか1年の治世で起こった大虐殺が、陳朝滅亡の要因の一つを成した。▼
▲#[[大定 (陳朝)|大定]] [[1369年]] - [[1370年]]
<!--▼
==参考文献==
*[[小倉貞男]]『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』[[中公新書]]、1997年7月
▲<!--
*[[西川寛生]]訳著『ベトナム人名人物事典』暁印書館、2000年2月
-->
{{先代次代|[[陳朝]]の第8代[[ベトナム帝王一覧|
{{DEFAULTSORT:よう にちれい}}▼
▲{{先代次代|[[ベトナム帝王一覧|ベトナムの皇帝]]<br />([[陳朝#陳朝の歴代皇帝|陳朝]])|1369年 - 1370年|[[陳裕宗|裕宗]]|[[陳芸宗|藝宗]]}}
▲{{DEFAULTSORT:ようにちれい}}
[[Category:陳朝の君主|にちれい]]
[[Category:14世紀生]]
[[Category:1370年没]]
|