「山田奉行」の版間の差分
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当初、奉行所は[[伊勢国]][[山田 (伊勢市)|山田]](現在の[[三重県]][[伊勢市]])に置かれ、のち伊勢国[[度会郡]]小林(現・伊勢市[[御薗村|御薗町]]小林)に移転した。
[[慶長]]8年(1603年)、幕府は伊勢大神宮神領地に「山田奉行所」を置いた。外宮・内宮両大神宮の警固はもちろん、[[伊勢湾]]・南海での異国不審船の取締りや伊勢志摩神領以外も支配したが、「日光御奉行」と同等同格の「山田御奉行」の最重要任務は「二十一年目御遷宮奉行」を取り仕切る任務であった。そもそも「御遷宮奉行」は伊勢大神宮の[[祭主]]が兼任していたが、「影流始祖[[愛洲久忠]]」の父であろう「[[愛洲忠行|愛洲伊予守忠行]]」が武家として初めて大神宮[[神領奉行]]職に[[文明 (日本)|文明]]年間任じられた。([[神領奉行]]所は[[岩出祭主館跡]]と思われる。) 江戸幕府は「愛洲伊予守忠行」の先蹤を引継ぎ、以来明治
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寛永十八年御奉行小林村に御居住したまへる以前より、孔雀丸・虎丸と謂う御船あり、享保十三年戊申五月はじめ御奉行保科淡路君如何なる故にや、虎丸の御船を大湊の沖に泛かしめ給ふ。尤も近来稀なることなり。孔雀丸は汚損せしと云へり、今御船の御公用なければ其の水主同心七十五人は常に御役所付の諸役を勤む。|御普請役御組頭橋本市郎左衛門重永『享保庚戌備忘録』}}
寛永16年(1639年)9月に就任した第7代奉行花房志摩守幸次
一説によると、山田奉行はかつて[[豊臣秀吉]]が設けたもので、それを江戸幕府が引き継いで、[[慶長]]5年([[1600年]])に設置された、といわれている。
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