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[[ファイル:Charles Goodyear.png|thumb|250px|チャールズ・グッドイヤー。1891年に描かれた肖像画]]
'''チャールズ・グッドイヤー'''('''Charles Goodyear''', [[1800年]][[12月29日]] - [[1860年]][[7月1日]])は、[[アメリカ合衆国]]の発明家。
== 生い立ち ==
チャールズ・グッドイヤーは1800年12月29日、[[コネチカット州]]ニューヘブンで、農民のアマサ・グッドイヤーの6人兄弟の長男として生まれた。
父の農場ははニューヘブンの地峡部、現在オイスター・ポイントとして知られる場所にあり、一族の先祖は1638年にニューヘブン入植地を創設した一人であったという。チャールズはそこで幼少時を過ごしたが、アマサは象牙のボタン製造に関心を持ち、また製粉所を建設するのに適した場所を求め、一家は川があって水車を使えるコネチカット州ノーガタックに引っ越した。父は製粉業に加え農場も経営し、チャールズ少年は家業の手伝いで
[[1816年]]、16才のチャールズは機械学を学ぶため[[フィラデルフィア]]に行った。彼は熱心に勉学に励み、21歳で実家に戻ると、父親のボタン製造業を手伝った。また当時ほとんど[[イギリス]]からの輸入品だった農器具の製造に取り組んだ。彼は24才のとき、生涯チャールズの発明を支え続けたクラリッサ・ビーチャーと結婚した。二年後、彼は再びフィラディルフィアに転居し、農具製造の鍛冶店を開いた。彼の店で作られた農具は信頼できるとの評判で、彼の事業は軌道に乗る。
彼の商売はその後数年間はうまく行っていたが、30才ごろ彼は健康問題を抱え、同時に事業が傾いてきた。彼の店は
== ゴム製品の開発 ==
[[1831年]]ごろ、彼は当時の新素材
実は、当時のロクスバリー社は、製品の
ロクスバリー社の担当者はグッドイヤーの考案したチューブに満足し、その製品は1年間テスト販売された。驚いたことに、彼らが
彼は債権者に訴えられ、再三にわたって刑務所に入れられながらも実験をくり返した。ゴムを熱して練り、それに[[酸化マグネシウム]]を加えると、白い合成物になり、粘着性が除去されたように見えた。彼は秘密を発見したと考え、資金を集めてニューヘブンに小さな工房を建て、そこで発明を完成させることにした。ここで彼は、手はじめにゴム靴を作った。また自宅を材料の粉砕、引き延ばし、攪拌工程ができるよう改造し、妻と子供の協力の下で研究を続けた。彼の家は[[油煙]]で煤け、ゴムや酸化マグネシウムが[[テレビン油]]で溶ける悪臭が漂い、靴の裏地に使用される布が床じゅうに広げられていた。しかし依然としてゴムの溶解の問題は解決できず、この状態も長くは続かなかった。出資者たちは失望し、資金引き上げをグッドイヤーに通告した。
しかしグッドイヤーはあきらめる気はなかった。彼は設備を売り払うと、家族を下宿屋に残してニューヨークへ行った。ニューヨークで彼は、薬剤師の友人の屋根裏部屋で実験を継続した。やがて彼は、酸化マグネシウムを加えたゴムを[[生石灰]]と煮沸する方法を考案した。
▲しかしグッドイヤーはあきらめる気はなかった。彼は設備を売り払うと、家族を下宿屋に残してニューヨークへ行った。ニューヨークで彼は、薬剤師の友人の屋根裏部屋で実験を継続した。やがて彼は、酸化マグネシウムを加えたゴムを[[生石灰]]と煮沸する方法を考案した。これでゴムはアルカリによって粘着性を失い、ついに問題が解決されたように思われた。すぐにその実験結果は知れ渡って評判になり、いまや成功も確実と思われた。しかしある日、彼はゴム布の上に弱酸をたらすとアルカリが[[中和]]され、ゴムが再び粘着性を持つことに気づいた彼は、自らの持つゴムの性質に関する知識から、実験がまだ成功していないことを理解した。彼は実験を続け、ニューヨークの屋根裏から3マイル離れた[[グレニッチヴィレッジ]]に転居し、そこで実験を継続した。
実験で彼は、[[硝酸]]に浸したゴムの表面が粘性を失うことを発見した。彼はこのいわゆる酸加硫法を用いて多くの製品を作りだし、[[アンドリュー・ジャクソン]][[大統領]]より、じきじきに励ましの手紙を受け取る光栄に浴した。
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グッドイヤーは出資者を募り、[[スタテン島]]に工場を建設して製造設備を据えつけ、衣類、救命具、ゴム靴など様々なゴム製品を生産し始めた。グッドイヤーは自宅を建てて家族を呼び寄せ、全てがうまく行きはじめたちょうどそのとき、[[1837年]]に[[恐慌]]がやってきた。グッドイヤーは再び破産して、すべての財産を失った。
無一文になったグッドイヤーはボストンへ行き、ロクスバリー・ラバー社のJ・ハスキンスから借金をしてゴム製品の開発を再開した。彼は
重要な発見は[[1839年]]の冬になされた。グッドイヤーは実験でゴムに[[硫黄]]を混ぜ、それを加熱した(資料によっては、誤って[[ストーブ]]に接触させたのだという)。加熱されたゴムは溶解せずに[[革]]のように焼け焦げ、周りに乾燥した弾力のある褐色の物質が残った。彼は硫黄がゴムに耐熱性を持たせることを知った。
その頃、一家は[[マサチューセッツ州]]ウォーバーンで
▲実験に成功したものの、グッドイヤーの健康は胃痛と[[痛風]]に悩まされた。彼は足を引きずりながら実験を続けた。硫黄がゴムの性質を変えることは分かったものの、どれほどの熱を加えれば良いかが不明だった。熱い砂の中に入れて熱を加えたり、マシュマロのように焼いてみたり、やかんの上で蒸気を当てたり、アイロンで熱したりした。
実験の末、彼は[[華氏]]約270度
▲彼は実験を続けるために家財道具のほとんどを売り払った。食器が無くなったときは、ゴムで皿を作った。その後、食べることさえままならなくなった。翌春彼は友人を訪ねて[[ボストン]]に行くが、ホテル宿泊料の5ドルを払えず投獄された。釈放され自宅に戻ると、彼の息子の一人が死んでいた。グッドイヤーは葬儀代も払えず、借りた馬車で小さな棺を墓地まで運んだ。彼の12人の子供のうち、6人が幼少時に死亡した。
グッドイヤーは[[1844年]]6月15日に[[加硫ゴム]]の特許を取得した
▲実験の末彼は[[華氏]]約270度で4~6時間蒸気で圧力をかけた際に一定の結果を得られることを発見した。その結果を基に、ゴムの生産を行おうとニューヨークへ行きウィリアム・ライダーにサンプルを見せたが、ライダー・ブラザース商会は経営に失敗し、グッドイヤーの不運は続くかに見えた。しかし、彼はスプリングフィールドで義理の兄弟デ・フォレストの支援の元、ゴム生産工場を兄弟のネルソンおよびヘンリーに任せることとなった。
グッドイヤーはゴムのサンプルを製法、成分を明らかにせず[[イギリス]]のゴム会社に送付した。
▲グッドイヤーは[[1844年]]に[[加硫ゴム]]の特許を取得したが、その後彼の特許を侵害した事件で32件もの裁判を連邦最高裁まで強いられることとなった。[[1852年]]には[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]の[[ダニエル・ウェブスター]]が彼の弁護を行った。グッドイヤーはウェブスターに15,000ドルを支払い、それは当時最高の弁護料だった。2日間の演説でウェブスターはさらなる[[特許権]]侵害に対する差止命令を勝ち取り、それは新聞に大見出しで報道されたが特許侵害がやむことはなかった。
グッドイヤーは[[1860年]][[7月1日]]にニューヨークの[[フィフス・アヴェニュー・ホテル]]で死去し、故郷ニューヘブンの墓地に埋葬された。彼が死去したとき、まだ20万ドルの借金が残った状態だった。しかし彼の家族は、特許収入で以後安定した生活を送ることができた。息子のチャールズ・グッドイヤー・ジュニアは発明の才能を受け継ぎ、その後靴の製造機械を開発している。
▲グッドイヤーはゴムのサンプルを製法、成分を明らかにせず[[イギリス]]のゴム会社に送付した。サンプルは[[トーマス・ハンコック]]によって調査され、ハンコックはその表面に硫黄分が付着していることに気がつき、グッドイヤーの4年後、[[1843年]]に製法を確立した。グッドイヤーがイギリスで特許申請を行ったとき、数週間前にハンコックが特許申請を行っていたことに気がついた。[[1852年]]にハンコックはグッドイヤーに会い、加硫ゴムの開発はグッドイヤーの製品からもたらされたことを認めたが、イギリスにおける特許を主張した。しかし、グッドイヤーが[[フランス]]で申請した特許が[[ヨーロッパ]]における最初のものだった。[[1855年]]にはフランス皇帝[[ナポレオン3世]]がグッドイヤーに[[レジオンドヌール勲章]]を授与した。
== 外部リンク ==
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