「チャールズ・グッドイヤー」の版間の差分

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その頃、一家は[[マサチューセッツ州]]ウォーバーンで極貧生活を送っていた。彼は実験を続けるため、家財道具のほとんどを売り払った。皿がなくなったときは、ゴムで皿を作った。ついに食費にもこと欠くようになった。所用で[[ボストン]]に行ったとき、ホテル代の5ドルを払えず拘留された。釈放されて自宅に戻ると、彼の息子の一人が死んでいた。グッドイヤーは葬儀代が払えず、借りた馬車で小さな棺を墓地まで運んだ。彼の12人の子供のうち、6人が幼少時に死亡している。
 
実験の末、彼は[[華氏]]約270度を維持し、4~6時間蒸気で圧力をかけた際に一定の結果を得られることを発見した。その実験結果を基に、ニューヨークへ行き、ウィリアム・ライダーにサンプルを見せてゴム製造の出資を仰ごうとしたが、ライダー商会は倒産状態で、資金の獲得には失敗した。彼はマサチューセッツ州スプリングフィールドで、成功した紡織業者だった義理の兄弟デ・フォレストから援助をとりつけ、1842年にゴム工場を立ち上げた。彼は弟のネルソンとヘンリーに管理を任せ、同社は1844年に、ゴムを混合する機械をはじめて導入している。
 
グッドイヤーは[[1844年]]6月15日に[[加硫ゴム]]の特許を取得した。その後、特許侵害が頻発したため、彼は訴訟で対抗し、32件もの裁判を連邦最高裁まで戦うことを強いられた。[[1852年]]には[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]の[[ダニエル・ウェブスター]]が彼の弁護を行った。グッドイヤーはウェブスターに15,000ドルを支払い、それは当時として最高水準の弁護料だった。2日間の弁論で、ウェブスターはさらなる[[特許権]]侵害に対する差止命令を勝ち取り新聞に大きく報道されたが、その後も特許侵害がやむことはなかった。