「ポメラニア公国」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
13行目:
|次代1=スウェーデン領ポメラニア
|次旗1=Naval Ensign of Sweden.svg
|次代2=ポンメルン州 (1653年 - 1815年)
|次旗2=Wappen Mark Brandenburg.png
|次代3=
20行目:
|変遷1=[[ヴァルティスラフ1世]]ポメラニア公に即位
|変遷年月日2=1295年-1478年
|変遷2=ヴォルガストとシュテッティンに分立([[{{仮リンク|ボギスラフ5世]]|en|Bogislaw V, Duke of Pomerania}}の下で再統合)
|変遷年月日3=1512年
|変遷3=[[帝国クライス#オーバーザクセン・クライス|オーバーザクセン・クライス]]に参加
61行目:
[[1109年]]、[[ポーランド]]の大公[[ボレスワフ3世クシヴォウスティ|ボレスワフ3世曲唇公]]が「ポメラニア人」と呼ばれる異教のスラヴ系諸部族が支配していたポメラニア一帯([[リューゲン島]]の{{仮リンク|リューゲン公国|en|Principality of Rügen}}を含む)を平定。[[1121年]]ポメラニア人の{{仮リンク|グリフィン家|en|House of Griffins}}([[ドイツ語]]でグライフェン家、[[ポーランド語]]でグリフ家(グルィフ家)と呼ばれる)の[[ヴァルティスラフ1世]]を自らの臣下として封じて公国が成立。
 
ボレスワフ3世曲唇公はポメラニア公国全体のキリスト教化を目指し[[神聖ローマ帝国]]皇帝[[ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)|ロタール3世]]に協力を依頼。[[バンベルク]]よりオットー司祭が招かれ、大公はポメラニア公国全体のキリスト教化に成功するものの、[[ローマ・カトリック]]の[[コスモポリタニズム]]の教義を忠実に守るポーランドは皇帝にポメラニア全体を献上し、ポーランドによるポメラニア支配は1138年に終了。その期間を通じてヴァルティスラフ1世は公国の政治的統一を進めた。後には神聖ローマ帝国とデンマーク王国との間でポメラニアの支配権をめぐる抗争が勃発。1219年にデンマークが公国の支配権を確立する
 
後には神聖ローマ帝国とデンマーク王国との間でポメラニアの支配権をめぐる抗争が勃発(第1次分割 1155-1264)。1219年にデンマークが公国の支配権を確立する。[[1227年]]には、旧リューゲン公国領を巡ってデンマークと[[東方植民]]以降勢力を拡大しつつあった[[ハンザ同盟]]の[[ホルシュタイン]]伯([[:de:Grafschaft Holstein]])との間で[[:en:Battle of Bornhöved (1227)]]が勃発した。
 
[[1295年]]に[[:en:Partitions of the Duchy of Pomerania]]で Pomerania-Demmin と Pomerania-Stettin に分割された(第2次分割 1295-1368)。第3次分割 (1368-1376)。第4次分割 (1376/1377-1478)。14世紀末にはポンメルンのエリクこと[[エーリク7世 (デンマーク王)|エーリク7世]](ポメラニア公[[{{仮リンク|ヴァルティスラフ7世]]|en|Wartislaw VII, Duke of Pomerania}}の子)が[[デンマノルウェ]](在位1389年 - 1442年)、[[ノルウェデンマ]](在位1396年 - 1439年)、[[スウェーデン]](在位1396年 - 1439年)の国王に選出されている([[カルマル同盟]])。[[1464年]]にPomerania-Stettin領有権を巡って Pomerania-Wolgast と Brandenburgからのクレームで[[:en:Brandenburg–Pomeranian conflict]]が起こり、[[:en:Treaty of Prenzlau]](1472、1479)で Pomerania-Wolgast に併合された
 
第5次分割 (1531-1569)。第6次分割 (1569-1625)。[[三十年戦争]]([[1618年]] - [[1648年]])中の[[1637年]][[3月10日]]に最後のポメラニア公{{仮リンク|ボギスラフ14世|en|Bogislaw XIV, Duke of Pomerania}}が亡くなり、{{仮リンク|シュテッティン条約 (1653年)|en|Treaty of Stettin (1653)|label=シュテッティン条約}}で[[ブランデンブルク=プロイセン]]領{{仮リンク|ポンメルン州 (1653年 - 1815年)|en|Province of Pomerania (1653–1815)|label=ポンメルン州}}と{{仮リンク|スウェーデン領ポメラニア|en|Swedish Pomerania}}に分割され消滅した。
 
== 消滅後の歴史 ==
公国は長きに渡り分断された末、[[1814年]]にブランデンブルク=プロイセンから発展した[[プロイセン王国]]によって統一され{{仮リンク|ポメラニア州 (1815年 - 1945年)|en|en:Province of Pomerania (1815–1945)|label=ポメラニア州}}となったものの、公国として復活する事はなかった。称号として[[ホーエンツォレルン家]]による[[ドイツ皇帝]]の称号の一つとなり、[[ドイツ帝国]]が消滅する[[1918年]]まで用いられた。[[1919年]][[6月28日]]に調印された[[ヴェルサイユ条約]]でポーランドへ割譲され[[ポーランド回廊]]と呼ばれ、[[東プロイセン]]がドイツ本国から分断された。
 
== 関連項目 ==
* [[:en:List of Pomeranian duchies and dukes]]
 
 
{{DEFAULTSORT:ほめらにあこうこく}}