「ボブ・ホーナー」の版間の差分

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同年オフ、ヤクルトは翌1988年もホーナーと契約すべく、3年間で総額15億円と当時では破格の条件を提示(この年、ロッテから中日へ移籍した[[落合博満]]の日本人最高年俸が1億3千万円の時代)。ホーナー側とほぼ合意した。ところがその後、ホーナーはヤクルトとの契約を白紙化し、[[ジャック・クラーク]]をFA([[ニューヨーク・ヤンキース]]に移籍)で失い、クラークに代わる四番打者の補強を急務としていた[[セントルイス・カージナルス]]と1年間総額わずか約1億円(当時)の契約で合意し入団した。後に「日本は大嫌い。地球の裏側まで来て、ベースボールとは言えない代物をプレーしたくない。戻らなくていいのなら、いくらでもいいから契約してほしい」と代理人に泣き付いたのがその真相だったと報じられ、その侮辱的な言葉は日本プロ野球のファンや関係者に強いショックを与えた。なお、ホーナーは後の著書では、上記の発言はマスコミの誤報だと釈明している。また、日本での生活を「とてもエキサイティングなものだった」という発言も残している。
 
そして1988年、ホーナーはカージナルスでプレー。[[ホワイティ・ハーゾグ]]監督はホーナー獲得には否定的だったが、フロントが4番打者として期待しての入団だった。しかし結局、開幕直後の4月には[[ミネソタ・ツインズ|ツインズ]]から[[トム・ブラナンスキー]]([[トム・ハー]]との交換[[トレード]])、さらに7月には[[ロサンゼルス・ドジャース|ドジャース]]から[[ペドロ・ゲレーロ]]を[[トレード]]([[ジョン・テューダー]]との交換)で獲得し、4番打者として起用することとなった。ホーナーは左肩の故障のため、60試合の出場で、わずか3本塁打に終わる。しかも、ハーゾグ監督が「予言」した通り、本拠地[[ブッシュ・メモリアル・スタジアム|ブッシュ・スタジアム]](当時)で本塁打を打てないなど期待を裏切り、同年限りで解雇された。
 
翌{{by|1989年}}は[[ボルチモア・オリオールズ]]のスプリング・トレーニング(日本の春季キャンプに相当)に招かれたが、契約には至らず、現役を引退した。同年オフ、ヤクルトに対し「日本に復帰したい」と、再び日本でプレーすべくオファーをかけていたが、すでに故障が元で引退したことは公にされており、また前述の日本に対する侮辱的な発言もあって、このホーナーの行動は「虫が良すぎる」と痛烈な批判の対象となった。