「若乃花幹士 (初代)」の版間の差分

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Ruinesan (会話 | 投稿記録)
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栃・若はともに優勝10回、全勝1回、連勝記録24、直接の対戦でも若乃花の15勝19敗(うち1敗は前述の1956年9月場所の不戦敗)とほぼ互角だった。大関昇進までは11勝4敗の成績が最高だったが、大関昇進以後皆勤した場所は全て二ケタの勝ち星を残し、大関時代の勝率が.785、横綱時代には.794と地位が上がるにつれて強みを増していった。
 
しかし、忘れてはならないのが、同時代に横綱を張った[[朝潮太郎 (3代)|朝潮]]の存在である。1956年3月場所、最初の優勝決定戦進出の際に、関脇だった朝汐(当時)に敗れてから、微妙なところで朝汐と縁があった。1958年11月場所には、12勝1敗1分で迎えた千秋楽、13勝1敗の大関朝汐と対戦、勝てば3連覇と、(結果的に)[[全6場所制覇]]をなしとげるところだったが、敗れてしまう。1958年9月場所は初の全勝優勝を目指し千秋楽に朝潮と対戦したが敗れてしまい、優勝こそ既に決まっていたが夢の全勝は阻まれた。1959年5月場所には、千秋楽に逆転を可能にしたのは実は13日目に若乃花が朝潮に敗れて1敗となったからであるし、1960年3月場所の全勝対決も、朝潮が途中休場したために両者の対戦が千秋楽になったためである。このように影の存在を強いられた朝潮あってこそ、栃若時代も際立っていたと見ることもできる。
 
このように「土俵の鬼」と云われた若乃花が引退を決意したのは、[[1962年]]1月場所、関脇だった[[栃ノ海晃嘉|栃ノ海]]に負けた相撲であった。倒れそうになったら足を出して負けた方がましと考えるほど土俵で倒れることを極端に嫌っていた若乃花が、栃ノ海の見事な連続技([[蹴手繰り]]・[[巻き落とし]]・[[突き落とし]]を一瞬のうちに繰り出す)で土俵中央で転がされたのだった。「何しろ、それまで土俵の真ん中でこけたことは無かったからねぇ。それをやられたんで、こりゃいかんと思った」と若乃花は語ったという。