「ロシア・ツァーリ国」の版間の差分

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[[ファイル:Russia1600.png|thumb|250px|東に拡大するロシア(1600年頃)]]
 
[[1584年]]にイヴァン4世の後継者となったのは、知的障害のある息子[[フョードル1世]]だった。事実上の政治権力はツァーリの妻の兄である大貴族[[ボリス・ゴドゥノフ]]の手に渡った(ボリスは農民が年に1度だけ移動の自由を与えられて仕える領主を変えられる[[聖ユーリーの日]]を廃止したと信じられている)。[[1589年]]、[[モスクワ総主教|モスクワ総主教座]]を設置。総主教座の創設はロシア正教会の分離と完全独立を目指す運動が、頂点に達したことを示していた。[[1590年]]の{{仮リンク|ロシア・スウェーデン戦争 (1590年-1595年)|en|Russo-Swedish War (1590–1595)|label=ロシア・スウェーデン戦争}}で[[フィンランド湾]]沿岸部を回復。[[イェルマーク]]の敗死([[1585年]])後、再び{{仮リンク|西シベリア|de|Westsibirien}}への進出を再開し、[[1598年]]に[[シビル・ハン国]]を滅亡させた({{仮リンク|シビル・ハン国攻略|en|Conquest of the Khanate of Sibir}})
 
1598年にフョードル1世が後継者を残さずに死去し、モスクワの[[リューリク朝]]は断絶した。ボリス・ゴドゥノフはボヤーレ、高位聖職者、一般人からなる国家議会[[ゼムスキー・ソボル]]を招集し、自身をツァーリに選出させたが、多くのボヤーレ派閥が彼のツァーリ即位への承認を拒んだ。また大規模な収穫不足が{{仮リンク|ロシア飢饉 (1601年-1603年)|en|Russian famine of 1601–1603|label=ロシア大飢饉}}([[1601年]] - [[1603年]])を引き起こし、ロシア社会に不満が鬱積する中で、1591年に死んだはずのイヴァン4世のもう一人の息子[[ドミトリー・イヴァノヴィチ (ウグリチ公)|ドミトリー]]を名乗る男が現れた。後に[[偽ドミトリー1世]]として知られることになるこの僭称者は、ポーランドの支援を受けてロシアに攻め込み、進軍するうちにボヤーレやその他の勢力からの支持を得るようになった。歴史家は、1605年にゴドゥノフが死ななければこの危機を乗り越えることが出来ただろうと考えている。