「チャールズ・グッドイヤー」の版間の差分
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[[1831年]]ごろ、彼は当時の新素材であったゴムに興味を持ち、ゴムに関する新聞の記事はすべて切り抜いた。当時、[[ボストン (マサチューセッツ州)|ボストン]]のロクスバリー・ラバー・カンパニーはゴム製品の製造所を持ち、製品を全国に販売していた。グッドイヤーは[[ニューヨーク]]でロクスバリーのゴムの浮き輪を買ってきて試験し、チューブの不完全さにあきれ返った。彼は自分で幾つかのチューブを試作し、それをロクスバリー・ラバー社に持ちこんだ。
ロクスバリー社の担当者はグッドイヤーの考案したチューブに満足し、その製品は1年間テスト販売された。驚いたことに、彼らが自信を持っていた、何千ドル分もの商品が、ゴムの劣化によって返品されてきて、土に埋めて廃棄しなければならなかった。グッドイヤーはフィラデルフィアに戻ってゴムの実験をやり直し、製品の欠点を克服する決意を固めた。
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彼は債権者に訴えられ、再三にわたって刑務所に入れられながらも実験をくり返した。ゴムを熱して練り、それに[[酸化マグネシウム]]を加えると、白い合成物になり、粘着性が除去されたように見えた。彼は秘密を発見したと考え、資金を集めてニューヘブンに小さな工房を建て、そこで発明を完成させることにした。ここで彼は、手はじめにゴム靴を作った。また自宅を材料の粉砕、引き延ばし、攪拌工程ができるよう改造し、妻と子供の協力の下で研究を続けた。彼の家は[[油煙]]で煤け、ゴムや酸化マグネシウムが[[テレビン油]]で溶ける悪臭が漂い、靴の裏地に使用される布が床じゅうに広げられていた。しかし依然としてゴムの溶解の問題は解決できず、この状態も長くは続かなかった。出資者たちは失望し、資金引き上げをグッドイヤーに通告した。
実験で彼は、[[硝酸]]に浸したゴムの表面が粘性を失うことを発見した。彼はこのいわゆる酸加硫法を用いて多くの製品を作りだし、[[アンドリュー・ジャクソン]][[大統領]]より、じきじきに励ましの手紙を受け取る光栄に浴した。グッドイヤーは出資者を募り、[[スタテン島]]に工場を建設して製造設備を据えつけ、衣類、救命具、ゴム靴など様々なゴム製品を生産し始めた。グッドイヤーは自宅を建てて家族を呼び寄せ、全てがうまく行きはじめたちょうどそのとき、[[1837年]]に[[恐慌]]がやってきた。グッドイヤーは再び破産して、すべての財産を失った。
無一文になったグッドイヤーはボストンへ行き、ロクスバリー・ラバー社のJ・ハスキンスから借金をしてゴム製品の開発を再開した。彼は酸加硫法の特許を取得し、政府と150個の郵袋納入契約を結んだ。グッドイヤーは袋を製造し、暖かな部屋にそれをしまって1ヶ月の休暇に出た。1ヶ月後に戻ると袋は溶けて変質していた。酸加硫法はいまだ完全な方法とは言えず、彼らの製品は硬化したり溶解したりし
▲無一文になったグッドイヤーはボストンへ行き、ロクスバリー・ラバー社のJ・ハスキンスから借金をしてゴム製品の開発を再開した。彼は酸加硫法の特許を取得し、政府と150個の郵袋納入契約を結んだ。グッドイヤーは袋を製造し、暖かな部屋にそれをしまって1ヶ月の休暇に出た。1ヶ月後に戻ると袋は溶けて変質していた。酸加硫法はいまだ完全な方法とは言えず、彼らの製品は硬化したり溶解したりし、顧客から続々と返品されてくる状態であった。
重要な発見は[[1839年]]の冬になされた。グッドイヤーは実験でゴムに[[硫黄]]を混ぜ、それを加熱した(資料によっては、誤って[[ストーブ]]に接触させたのだという)。加熱されたゴムは溶解せずに[[革]]のように焼け焦げ、周りに乾燥した弾力のある褐色の物質が残った。彼は硫黄がゴムに耐熱性を持たせることを知った。
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グッドイヤーは[[1844年]]6月15日に[[加硫ゴム]]の特許を取得した。その後、特許侵害が頻発したため、彼は訴訟で対抗し、32件もの裁判を連邦最高裁まで戦うことを強いられた。[[1852年]]には[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]の[[ダニエル・ウェブスター]]が彼の弁護を行った。グッドイヤーはウェブスターに15,000ドルを支払い、それは当時として最高水準の弁護料だった。2日間の弁論で、ウェブスターはさらなる[[特許権]]侵害に対する差止命令を勝ち取り新聞に大きく報道されたが、その後も特許侵害がやむことはなかった。
グッドイヤーはゴムのサンプルを製法、成分を明らかにせず[[イギリス]]のゴム会社に送付した。[[トーマス・ハンコック]](
グッドイヤーは[[1860年]][[7月1日]]にニューヨークの[[フィフス・アヴェニュー・ホテル]]で死去し、故郷ニューヘブンの墓地に埋葬された。彼が死去したとき、まだ20万ドルの借金が残った状態だった。しかし彼の家族は、特許収入で以後安定した生活を送ることができた。息子のチャールズ・グッドイヤー・ジュニアは発明の才能を受け継ぎ、その後靴の製造機械を開発している。1976年には、グッドイヤーはオハイオ州アクロンの「発明者の殿堂」にノミネートされた。
グッドイヤー自身も一族も、売上高10億ドル以上を誇る世界的タイヤ製造会社・グッドイヤー・タイヤ・アンド・ラバー・カンパニーとの関係はない。現在、彼と関係のある会社は、グッドイヤーが管理者として勤務していた小企業を吸収合併したユナイテッド・ステーツ・ラバーである。
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