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'''太田 氏資'''(おおた うじすけ、[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])- [[永禄]]10年[[8月23日_(旧暦)|8月23日]]([[1567年]][[9月25日]])は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[大膳大夫]]。[[太田資正]]の嫡男。母は[[難波田正直]](一説には[[難波田憲重|善銀]])の娘。妻は[[北条氏康]]の娘・長林院。初名は[[太田資房|資房]](すけふさ)。
 
はじめ父資正は反[[後北条氏]]の立場で[[北条氏康]]と争っていたが、永禄3年([[1560年]])頃、父が後北条氏に降伏した際に資房は[[北条氏康]]の娘を妻とした。ところが、続いて父が[[上杉謙信]]に降伏すると、一時[[厩橋城]]に[[人質]]として送られてしまう。永禄6年([[1563年]])に氏康の推挙で[[従五位下]]大膳大夫に任ぜられるほど氏康と親しくなるが、[[上杉謙信]]と接近した父資正とは次第に不仲になり、父が弟の[[梶原政景]]に家督を譲ろうとしているのを知ると、一時[[出家]]して「道也」と名乗った。
 
永禄7年([[1564年]])、父が[[国府台合戦|第2次国府台合戦]]で氏康と戦って敗退すると、秘かに[[還俗]]して父と弟を居城の[[岩付城]]から追放して家督を継ぎ、以後は北条氏の家臣として仕えた。この際に氏康から「氏」の一字を与えられて「氏資」と改名した。永禄8年([[1565年]])には氏資が[[簗田晴助]]を攻めている隙を突いて、資正が岩付城奪還を図り、一部の家臣もこれに応えたことから危機に陥るが、これを退けている
 
永禄10年(1567年)、[[三船山の戦い]]で北条軍が[[里見氏]]に大敗したとき、[[殿軍]]を務めて戦死した。一説には父親を裏切って北条方についた事から北条家中の一部から冷たい目で見られており、それを晴らすために殿軍を申し出たのだという。また、戦闘中、氏資に「越度」(=落度・作戦上の失敗)があったために殿軍を引き受けたとする説があるが、当時の言葉で命がけの振舞いの事を「越度」(命を落とすかと思われるほどの「度を越した」活躍)と表現する場合もあり、氏資に作戦上の失敗があったわけではない。