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{{亡くなったばかりの人物}}
{{Infobox 人物
|氏名 = 橋本 武
|ふりがな = はしもと たけし
|画像 = <!--画像ファイル名-->
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|出生名 =
|生年月日 = [[1912年]][[7月11日]]
|生誕地 = [[京都府]][[宮津市]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1912|7|11|2013|9|11}}
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|著名な実績 = [[#『銀の匙』授業|『銀の匙』授業]]
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'''橋本 武'''(はしもと たけし、[[1912年]][[7月11日]] - [[2013年]][[9月11日]])は、日本の[[国語]]教師、[[国文学者]]、元[[灘校]]([[灘中学校・高等学校]])[[教頭]]。[[京都府]][[宮津市]]出身。中学の3年間をかけて[[中勘助]]の『[[銀の匙]]』を1冊読み上げる国語授業「[[#『銀の匙』授業|『銀の匙』授業]]」で知られる。
 
== 人物 ==
* [[1930年]] - [[東京高等師範学校]](現・[[筑波大学]])入学。苦学生であった在学中、最初の2年間は[[家庭教師]]で凌ぐ。後の2年間は[[諸橋轍次]]の[[大漢和辞典]]編纂を手伝うが、この経験が後年の「[[#『銀の匙』授業|『銀の匙』授業]]」の勉強法にも繋がっていく。
* [[1934年]] - [[神戸市]]の旧制灘中学校に国語教師として赴任。[[東京高等師範学校]]の卒業生は公立の学校に就職するのが常識であった当時、公立校よりも格下とされていた私立校への就職は異例とも言うべきものであった。当時(旧制中学時代)の教え子に作家の[[遠藤周作]](1940年卒業)がいる。
 
* [[1946年]] - 結婚。
[[1934年]]、[[神戸市]]の旧制灘中学校に国語教師として赴任。[[東京高等師範学校]]の卒業生は公立の学校に就職するのが常識であった当時、公立校よりも格下とされていた私立校への就職は異例とも言うべきものであった。当時(旧制中学時代)の教え子に作家の[[遠藤周作]](1940年卒業)がいる。
* [[1950年]] - 新制灘中学校で新入生を担当することになった時点から、「[[#『銀の匙』授業|『銀の匙』授業]]」を開始。当時(新制中学時代)の教え子には、[[黒岩祐治]]、[[海渡雄一]]、[[角和夫]]、[[山崎敏充]]、[[平賀徹男]]らがいる。
 
* [[19461971年]]、結婚 - 灘校の教頭職に就任
* [[1984年]] - 灘校を退職。その後も、予備校の校長、[[文化教室]]で『[[源氏物語]]』の講師を務めるなど、精力的に活動を続ける。
 
* [[1994年]] - [[解離性大動脈瘤]]で緊急搬送され、高齢を理由に手術不可能と言われたが、奇跡的に損傷箇所が塞がり九死に一生を得る。
[[1950年]]、新制灘中学校で新入生を担当することになった時点から、「[[#『銀の匙』授業|『銀の匙』授業]]」を開始。当時(新制中学時代)の教え子には、[[黒岩祐治]]、[[海渡雄一]]、[[角和夫]]、[[山崎敏充]]、[[平賀徹男]]らがいる。
* [[2002年]] - 妻と死別。
 
* [[2005年]] - [[黒岩祐治]]著『恩師の条件 : あなたは「恩師」と呼ばれる自信がありますか?』(リヨン社発行、[[二見書房]]発売)により、注目を浴びる。
[[1971年]]、灘校の教頭職に就任。
* [[2009年]][[10月12日]] - [[NHK]]で「ザ・コーチ 人生ノ教科書 横道にそれてもいいんだ~伝説の国語教師 橋本武~」が放送される。
 
* [[2010年]] - [[伊藤氏貴]]著『奇跡の教室:エチ先生と『銀の匙』の子どもたち:伝説の灘校国語教師・橋本武の流儀』(小学館)がベストセラーとなる。
[[1984年]]、灘校を退職。その後も、予備校の校長、[[文化教室]]で『[[源氏物語]]』の講師を務めるなど、精力的に活動を続ける。
* [[2011年]][[6月18日]]・[[6月25日|25日]] - 灘校の特別授業「土曜講座」にて再び教壇に立ち、27年ぶりに「銀の匙授業」を行う。[[11月]]、国際2匹目のどじょう賞(Ig Nobel prize Japan:イグ・ノーベル賞 日本版)受賞。
 
* [[2013年]][[9月11日]] - 午後、[[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]の病院で逝去<ref>{{Cite web |date=2013年9月11日|url=http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/09/11/kiji/K20130911006600160.html |title=伝説の国語教師 橋本武氏 101歳で死去 |publisher= スポニチアネックス |accessdate=2013-09-11}}</ref><ref>{{Cite web |date=2013年9月11日|url=http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201309/0006330217.shtml |title=元灘中・高教諭「銀の匙」授業 橋本武さん死去 |publisher= 神戸新聞NEXT |accessdate=2013-09-13}}</ref>。101歳であった。
[[1994年]]、[[解離性大動脈瘤]]で緊急搬送され、高齢を理由に手術不可能と言われたが、奇跡的に損傷箇所が塞がり九死に一生を得る。
 
[[2002年]]、妻と死別。
 
[[2005年]]、[[黒岩祐治]]著『恩師の条件 : あなたは「恩師」と呼ばれる自信がありますか?』(リヨン社発行、[[二見書房]]発売)により、注目を浴びる。
 
[[2009年]][[10月12日]]、[[NHK]]で「ザ・コーチ 人生ノ教科書 横道にそれてもいいんだ~伝説の国語教師 橋本武~」が放送される。
 
[[2010年]]、[[伊藤氏貴]]著『奇跡の教室:エチ先生と『銀の匙』の子どもたち:伝説の灘校国語教師・橋本武の流儀』(小学館)がベストセラーとなる。
 
[[2011年]][[6月18日]]・[[6月25日|25日]]、灘校の特別授業「土曜講座」にて再び教壇に立ち、27年ぶりに「銀の匙授業」を行う。[[11月]]、国際2匹目のどじょう賞(Ig Nobel prize Japan:イグ・ノーベル賞 日本版)受賞。
 
[[2013年]][[9月11日]]午後、[[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]の病院で逝去<ref>{{Cite web |date=2013年9月11日|url=http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/09/11/kiji/K20130911006600160.html |title=伝説の国語教師 橋本武氏 101歳で死去 |publisher= スポニチアネックス |accessdate=2013-09-11}}</ref><ref>{{Cite web |date=2013年9月11日|url=http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201309/0006330217.shtml |title=元灘中・高教諭「銀の匙」授業 橋本武さん死去 |publisher= 神戸新聞NEXT |accessdate=2013-09-13}}</ref>。101歳であった。
 
== 『銀の匙』授業 ==
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== エピソード ==
* 在職中から[[宝塚歌劇団]]のファンとして知られ、同劇団の機関誌「[[歌劇 (雑誌)|歌劇]]」誌上に随筆「宝塚讃歌」を連載。[[1983年]][[10月]]の在職50年を祝うパーティーには、当時の現役生徒であった、[[高汐巴]]、[[若葉ひろみ]]、[[黒木瞳]]ら総勢60名の[[タカラジェンヌ]]が駆けつけ花を添えた。また、[[2010年]][[7月]]、ライオンズクラブの白寿を祝う会では、宝塚OGの[[上條あきら]](上条晃)が実行委員長を務め、12名の元[[タカラジェンヌ]]が東西から集合し、歌やパフォーマンスで祝った。
 
* [[解離性大動脈瘤]]で緊急搬送された際、[[救急救命士]]の処置により蘇生を果たす。この[[救急救命士]]は、教え子の[[黒岩祐治]]がキャスターを務めていた[[フジテレビ]]の[[FNNスーパータイム]]内で2年間に渡って行ったキャンペーンがきっかけとなり、[[1991年]]に制定された[[救急救命士法]]により制度化されたものである。
 
* 長く続けている趣味に[[蛙]]グッズの収集があり、自宅の表札は「青蛙人形館」、自らつけた戒名も「青蛙居士」である。