「日本ハリストス正教会」の版間の差分

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しかしながら日本正教会全体の状況の厳しさは変わらなかった。日本人正教徒達は各地で[[ロシア帝国]]のスパイであるとの嫌疑をかけられ、住居からの追放や、[[神父]]への襲撃、墓石や教会建物の破壊行為が各地で起こった<ref>[[長縄光男]]『ニコライ堂遺聞』300頁 - 301頁、成文社 [[2007年]] ISBN 9784915730573</ref>
 
正教側は、正教はロシア専有の宗教ではなく世界の聖公使徒教会であると主張していたが(これは世界の正教会と共通する見解<ref>[http://members.cox.net/photius1/quest.html Welcome to the Orthodox Christian Faith]("Greek Orthodox and Russian Orthodox are the same faith") - [http://members.cox.net/photius1/ St. John Prodromos Greek Orthodox Church]のページ。{{en icon}}</ref>)、世間からは「露教」と誤解する向きが根強かった。[[1894年]]に[[ギリシャ正教会]]のディオニシオス[[大主教]]が来日して[[ニコライ・カサートキン|ニコライ主教]]と日本人信徒ともに[[奉神礼]]を行った事を、「(ギリシャ正教の大主教とニコライ主教と)わが日本正教会信徒が一堂の内にて同一の信仰を保ち、同一の奉神礼を執行し、一の主なる神を讃美し、わが正教会の信仰と奉神礼とはギリシャ正教会のそれと同一であって、世界到るところの正教会、聖にして公たる使徒伝来の基督教会の一枝であることを如実に証明し得た」と記し、「正教会が蒙っていた冤罪を雪ぐべき好機会」であったと記した[[長司祭]][[三井道郎]]の回想記の一節にも、当時の日本正教会が置かれた状況が垣間見える<ref>[[長縄光男]]『ニコライ堂遺聞』237頁、成文社 2007年 ISBN 9784915730573</ref>。
 
==== 日露戦争からニコライの晩年まで ====