「柳沢信俊」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
10行目:
| 主君 = [[武田晴信]]→ [[武田勝頼]]→[[徳川家康]]
| 氏族 =青木氏→横手氏→ [[柳沢氏]]([[清和源氏]]・[[河内源氏]]流[[甲斐源氏]])
| 父母 = 父:[[青木信立]](信親)、母:[[漆戸左京亮|漆戸左京亮某]]の娘
| 兄弟 =[[青木信時]][[横手信国]]
| 妻 = [[石原昌明]]の娘
| 子 =[[横手源七郎|横手源七郎某]](某氏の男。横手家を継ぐ)、娘([[曽根内膳|曽根内膳某]]の娘のち[[折井次吉]]・妻)、[[曽根孫右衛門]][[曽根内膳|曽根内膳某]]の男)、娘([[米倉永時]]・妻)、娘([[高屋吉久]]・妻)、'''[[柳沢安吉]]'''、[[柳沢安忠]]
| 特記事項 =
}}
19行目:
 
== 略歴 ==
信俊は、[[天文 (日本)|天文]]17年([[1548年]])、[[武川衆]]・[[青木信立]]の3男として生まれ、初め青木源七郎長俊と名乗った。武川衆は、[[甲斐源氏]]・[[武田氏]]の一族である[[甲斐一条氏|一条時信]]を祖とする辺境武士集団であり武田家家臣団に組み込まれていた。青木氏は当時、武川衆の頭領の立場にあった。
 
[[元亀]]1年([[1570年]])1月、名門横手家を継いでいた実兄の[[横手信国]]が[[駿河国]]花沢城攻めで討死すると、長俊は[[武田晴信]](信玄)の命令で、後嗣が居なかった横手家の[[名跡]]を継いだ。併せて、晴信より[[偏諱]]を賜り名を信俊と改めた。元亀3年([[1572年]])、[[三方ヶ原の戦い]]に参戦し、[[山県昌景]]のもとで戦功を挙げた。[[天正]]3年([[1575年]])5月には、[[長篠の戦い]]に供奉。敗戦に終わるものの、[[武田勝頼]]の下で本陣を守り何度も敵兵を押し返す働きをした。
 
天正8年([[1580年]])10月、[[上野国]]膳城素肌攻めの際に、同じく武川衆の柳沢信兼が軍令違反(軍列を無断で離れて敵城の門際まで前進してしまったことが原因)のため勝頼より切腹を命じられた。信兼の死後、勝頼は切腹を命じたことを行き過ぎであったと後悔するとともに柳沢家が途絶えることを惜しみ、この戦いで功績のあった信俊に恩賞として柳沢家の名跡が与えられ、同時に名を柳沢兵部丞信俊と改めた。