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'''田中 玄清'''(たなか はるきよ、[[文政]]3年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]([[1820年]][[9月7日]]) - [[慶応]]4年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]([[1868年]][[10月8日]]))は、[[江戸時代]]末期([[幕末]]の[[武士]][[会津藩]][[家老]])である。号は大海。田中土佐の通称で知られる。子に[[田中玄光|玄光]]。
 
== 経歴生涯 ==
[[文政]]3年([[1820(1820]])、会津藩家老・[[田中玄良]]の長男として生まれる。田中家は会津九家に数えられる藩内の名門で、家禄は2,000石である。父と同じく家老として藩主・[[松平容保]]に仕えた。[[文久]]2年([[1862年]])、容保が幕府から[[京都守護職]]就任を命じられた際、同じく家老の[[西郷頼母]]と共に江戸に赴き、容保に対して京都の情勢や負担の大きさを説いて反対した。しかし[[京都守護職]]就任が決定すると、[[野村左兵衛]]らと先んじて上洛し、事前調整に努めている。
 
父と同じく家老として藩主・[[松平容保]]に仕えた。[[文久]]2年([[1862年]])、容保が幕府から[[京都守護職]]就任を命じられた際、同じく家老の[[西郷頼母]]と共に江戸に赴き、容保に対して京都の情勢や負担の大きさを説いて反対した。しかし[[京都守護職]]就任が決定すると、[[野村左兵衛]]らと先んじて上洛し、事前調整に努めている。
[[戊辰戦争]]では[[会津戦争]]において、[[若松城|会津若松城]]下に侵攻した[[官軍]]を防ぐべく、甲賀町口で戦った。畳を銃弾を防ぐ壁にして奮戦したといわれるが負傷し、家老・[[神保内蔵助]]と共に医師・土屋一庵(150石)の屋敷で自刃した。享年49。墓所は[[会津若松市]]の[[天寧寺]]。
 
[[戊辰戦争]]では[[会津戦争]]において、[[若松城|会津若松城]]下に侵攻した[[官軍]]を防ぐべく、甲賀町口で戦った。畳を銃弾を防ぐ壁にして奮戦したといわれるが負傷し、慶応4年(1868年)に家老・[[神保内蔵助]]と共に医師・土屋一庵(150石)の屋敷で自刃した。享年49。墓所は、[[福島県]][[会津若松市]]の[[天寧寺]]。
 
== 田中家 ==
田中家は[[伊勢国]][[北畠家|北畠氏]]一門・田丸氏の出身で、[[甲斐国]][[武田氏|甲斐武田]]に仕えたのち、[[保科氏|保科家]]家臣となった。

[[田中正玄]]は、[[保科正之]]を補佐し、藩大老職として藩政を取り仕切った。[[田中玄宰]]は[[天明]]期に藩政改革を行い、藩校・[[日新館]]を創立。一門には[[第二次共産党 (日本)|第二次共産党]]委員長で、のちに[[右翼]]活動家となった[[田中清玄]]がいる。
 
== 参考文献 ==