「猟官制」の版間の差分
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もっとも、当時において猟官制が[[売官制]]や情実主義のように罪悪視されていたわけではなく、むしろ[[絶対王政]]的な[[官僚制]]から近代[[民主主義]]を防衛するために必要な制度であると考えられた点に留意する必要がある。
絶対王政下においては、国家の最高責任者である[[国王]]がその側近を重要な公職に任じて[[行政]]を担当させることによって、自己の思い通りの政治を行って国民に圧政を敷くことが当然視されていた。[[市民革命]]を経て[[政党政治]]を獲得した政党の指導者たちは、官僚が国民の直接的な監督下に置かれていないことを危険視し、国民の意思を反映した選挙で勝利して政権を獲得した政党(与党)が認めた官僚以外は排除して、自党支持者に広く公職を開放することによって、選挙によって示された国民の意思に沿った行政が実行されると考えたのである。また、政権政党側にしてもこうした仕組みの方が政権発足後の政権運営においても、また次期選挙に向けての支持者対策としても有利であったことは言うまでもない。
また、当時の行政は複雑な専門的知識を必要とする分野は限られており、職務に対する専門性よりも特定人物の公職在任が長期化することによって行政が硬直化することの方が問題視されていたという事情もあった。
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== 拡大・進展 ==
アメリカ独立当初からあり、[[トーマス・ジェファーソン|ジェファーソン]]が唱えた「政府は小さければよい」という主義を背景として、開拓者が築いた西部諸州では農民を中心とした比較的単純な州政府ができあがり、そこでは専門の知識を問われず誰でも郡治安官・郡書記・道路監視人・州会計検査官・知事などの職に就くことができた。公職に伴う収入は大きかったので、西部定住者は短期在任制
その一方で、このシステムは、[[資本主義]]の発達(アメリカの場合には国土拡大や移民増加、イギリスの場合には[[選挙権]]の拡大が加味される)によって社会構造が複雑化すると、政党政治が様々な利害関係と結びついて[[金権政治]]へと転化されやすくなり、猟官制が選挙運動や資金提供に対する見返りへと変化し、無能な官吏の増加と汚職の原因となった。そのため、アメリカでは[[1871年]]には政府職員の任用に試験を課す法律が採択される。[[1881年]][[ジェームズ・ガーフィールド|ガーフィールド大統領]]が失望させられた猟官者に射殺されるという事件をへて官吏任用制改革の動きが加速し、翌年民主党が下院で過半数を占めて連邦官吏任用制度委員会を創設する。そのとき[[グロバー・クリーブランド|クリーブランド大統領]]は党派的な免官を行わず、[[1915年]]までに「猟官制」は連邦政府レベルでほぼ終熄した。
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だが、行政の専門化は官僚主導の政治運営の危惧を増大させるなどの弊害があり、政治的任命による選挙を通じた行政の監督と公務員任命及び行政運営の公正さの確保とのバランスを取ることが政治的課題として常に内在していると言える。
なお、日本においては第二次世界大戦前には[[内務省 (日本)|内務省]]及び同省が任命した[[府県知事]]や[[警察署長]]が[[警察]]を用いた公然・非公然の[[選挙干渉]]をしばしば行った。そのために、日本でも政党政治が行われると、「政治の粛正」を[[大義名分]]として[[文官分限令]]第11条にあった「任命権者による行政運営上の都合に基づく休職」規定を発動して内務省を中心に省幹部や知事などの休職・転任が政権政党交代ごとに行われて、自党系の府県知事や警察幹部などが配置された。このため、内務省ほか各省内部に政党と結びついた一種の派閥が形成されることとなった。これらは「'''党弊'''」として内務官僚のみならず地方議会や一般の国民世論からの批判も浴びて後に政党による行政支配に反対する[[革新官僚]]の台頭を
== 参考文献 ==
* 佐藤慶幸「猟官制」(『社会科学大事典 19』(鹿島出版会、1974年
* 太田俊太郎「スポイルズ・システム」(『現代政治学事典』(ブレーン出版、1998年
* 古川隆久『昭和戦中期の議会と行政』(吉川弘文館、2005年
* [[ジェームズ・ブライス|J・ブライス]]
* [[ヨハン・ホイジンガ|J・ホイジンガ]]
* [[R・ホーフスタッター]]
== 関連項目 ==
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* [[資格任用制]]
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