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'''フリードリヒ・グルダ'''('''Friedrich Gulda''', [[1930年]][[5月16日]] - [[2000年]][[1月27日]])は[[オーストリア]]の[[ピアニスト]]・[[作曲家]]。[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の演奏を特に得意とした。[[ジャズ]]演奏でも知られる。[[20世紀]]を代表する巨匠ピアニストの一人である。[[1960年代]]は[[イェルク・デームス]]、[[パウル・バドゥラ=スコダ]]とともに[[ウィーン]][[三羽ガラス烏]]と呼ばれた。最初の妻との子[[パウル・グルダ|パウル]]、2人目の妻・祐子(ジャズピアニスト/日本人)との三男[[リコ・グルダ|リコ]]はともにピアニスト。日本に対しては妻が日本人だったこともあり、親近感を抱いていたことでも知られる。来日歴は[[1967年]]、[[1969年]]、[[1993年]]の3度。
 
== 略歴 ==
*[[1930年、ウィーン]]生まれ
*[[1942年]]、[[ウィーン音楽院]](現[[ウィーン国立音楽大学]])に入学し、ブルーノ・ザイドルホーファーに師事
*[[1946年]]、[[ジュネーブ国際音楽コンクール]]で一等賞を受賞
*[[1947年]]、初のレコーディング。バッハ、ベートーヴェン、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]、[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]などを録音。
*[[1955年]]頃、[[マルタ・アルゲリッチ]]を指導
*1967年 - 1968年、3回目となるベートーヴェン『[[ピアノソナタ]]全集』録音
*1970年頃、ジャズに傾倒する。
*[[1980年]]、『[[チェロ協奏曲 (グルダ)|チェロと吹奏楽のための協奏曲]]』を作曲。
*[[1999年]]頃、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]『[[4つの即興曲D935]]』を自宅スタジオで録音。これが最後の録音となる。
*1999年3月頃、[[マスメディア|マスコミ]]に自分が死去したという偽の情報を流し、マスコミが騒ぎ始めた数日後に生き返ったという設定で復活コンサートを開くという奇妙な行動を起こす。
*[[2000年]]、死去
 
== グルダの特徴 ==
フリードリヒ・グルダを論じるとき、様々な言い方がなされることがあるが、古きよき時代の伝統を受け継ぎつつも、新しい音楽の可能性を探る挑戦者だったということができる。[[1970年代]]にジャズの演奏に転向しようとした(周囲の反対でそれは出来ず、クラシックとジャズの演奏を両立させる道を選んだ)のも、既存の音楽がつまらないというわけではなく、自分の学んだ古き音楽と新しい音楽の融合を目指したのである。その証左として、彼のレパートリーは非常に広く、クラシック音楽にしてもバッハの[[平均律クラヴィーア曲集]]のような古いものから、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]、プロコフィエフまで多彩であったことが挙げられる。しかし、彼が最も得意としたのは、3度も『ピアノソナタ』全曲を録音しているベートーヴェンであった〈①1953.10~1954.1 RAVAG録音(ORFEO DOR発売)、②1954~1958 DECCA録音、③1967 AMADEO録音〉。
 
== その他 ==