「ジョン・マーシャル (政治家)」の版間の差分

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{{Otheruses|アメリカ建国期の政治家|[[マーシャル諸島]]の名の由来となった、イギリスの航海士|ジョン・マーシャル (航海士)}}
{{政治家
{{Infobox Officeholder
| name= ジョン・マーシャル
|各国語表記 = {{lang|en|John Marshall}}
| image=John Marshall by Henry Inman, 1832.jpg
| caption=ジョン・マーシャル、1831(1831<br />[[ヘンリー・インマン]]画)
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| term_start=1801年1月31日<ref name='fedjudcenter'>{{Cite news| author= | coauthors= |authorlink= | title=Federal Judicial Center: John Marshall | date=2009-12-12 | publisher= | url=http://www.fjc.gov/servlet/tGetInfo?jid=1486 | work = | pages = | accessdate = 2009-12-12 | language = }}</ref>
| term_end=1835年7月6日
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|district3 職名3 = [[アメリカ合衆国下院]]議員<br>[[バージニア州]][[バージニア州第13選挙区|第13選挙区]]選出
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|battles=[[アメリカ独立戦争]]
}}
'''ジョン・マーシャル'''('''{{lang-en-short|John Marshall}}''', [[1755年]][[9月24日]] - [[1835年]][[7月6日]])は、[[アメリカ合衆国]]の第4代[[合衆国最高裁判所|連邦最高裁判所]]長官。前歴として、[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]議員、第4代[[アメリカ合衆国国務長官]]も務めている(第3代大統領[[トーマス・ジェファーソン]]とは親戚である)。
 
== 生涯 ==
マーシャルは[[バージニア州]]ファキール郡のジャーマンタウン(現在の[[ミッドランド]])で生まれた。彼は[[アメリカ独立戦争]]の初期にカルペッパー[[民兵]]のメンバーであり、1776年7月30日に第3バージニア・コンティネンタル連隊に入り、[[大尉]]に昇進。彼は多くの重要な戦いに貢献した。彼は戦後[[弁護士]]となり、バージニア州の[[連邦党]]組織結成のリーダーとなった。その働きが中央政府から注目され、幾つかの外交ポスト就任を提示されたが、バージニア州にとどまることを選んだ。しかしながら、1797年に[[フランス]]と交渉を行う三人委員会の委員職を受諾した。[[フランス]]代表が交渉着席の代償として[[賄賂]]を要求したが([[XYZ事件]]を参照)、マーシャルはこの要求を拒絶し、国の[[名誉]]と尊厳を保持した。
その後、彼は連邦議会議員、さらに、第2代大統領[[ジョン・アダムズ]]のもとでの国務長官を歴任する。連邦議会選挙での[[連邦党]]の大敗を受けて、1801年、連邦最高裁判所長官となる。数々の憲法上の重要判決を下し、連邦最高裁の権威を高める礎石を築き、後世において最も尊敬される裁判官となった。
 
===教育===
彼は、最初に[[牧師]]と[[家庭教師]]から計2年ほど教育を受け、その後、[[アメリカ独立戦争]]期に[[ウィリアム・アンド・メアリー大学]]で3ヶ月ほど[[法律]]の講義を受講した。彼は元々大学においてはそれほど勤勉ではなかった。彼の論理的能力が開花したのは、むしろバージニア州の弁護士になって実務経験を積んでからである。当時の法律教育は、このような[[徒弟制度]]が中核であった。(彼の物事の本質を見抜く直観力と論理的思考力は並外れており、その類まれな能力は、のちに彼の下した数々の重要判決における法廷意見において端的に現れることになる。)
 
===国務長官期===
その後マーシャルは、第2代大統領[[ジョン・アダムズ]]から[[合衆国最高裁判所|連邦最高裁判所]]長官就任を依頼された。しかしマーシャルは、連邦議会議員選への出馬を選択した。彼は1799年に議員に選出され、1800年6月6日に[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]に就任した。彼は公海上におけるアメリカ合衆国の権利に対する妨害に反対し、外交抗議に力を与えるために強い海軍を必要とする政策を採用した。
 
===連邦最高裁判所長官===
[[画像:John Marshall.JPG|thumb|ジョン・マーシャルの銅像]]
マーシャルは、第2代大統領[[ジョン・アダムズ]]によって、1801年1月20日に[[合衆国最高裁判所|連邦最高裁判所]]長官に任命された。連邦最高裁判所でマーシャルは、憲法解釈を通じて連邦の権限を確保し、連邦司法部および合衆国憲法の権威確立について大きな貢献を行なった。彼は一連の歴史的な諸判決を通じて、当時極めて弱体であった司法府を、議会(立法)や大統領(行政)と同等の影響力を持つ独立した地位へと高めてゆく、最初の一歩を踏み出したのであった。