「ホアキン・バラゲール」の版間の差分

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[[サンティアゴ県]] ({{interlang|en|Santiago Province (Dominican Republic)|Santiago Province}}) に生まれた。父親は[[カタルーニャ人]]を先祖に持つ[[プエルトリコ]]人であった。[[サントドミンゴ]]で教育をうけ[[パリ大学]]を卒業。当時ドミニカの独裁者だった[[ラファエル・トルヒーヨ]]に忠実で1940~1950年代に外交官、内閣のポストを歴任し、[[1960年]]、副大統領から大統領に昇格した。しかし1961年にトルヒーヨは暗殺され、バラゲールは翌年の[[クーデター]]で失脚した。
 
その後[[ドミニカ内戦]]([[アメリカ軍によるドミニカ共和国占領 (1965年-1966年)|ドミニカ侵攻]])が終わった[[1966年]]におこなわれた大統領選で[[社会キリスト教革命党]]から出馬。対立候補の[[ドミニカ革命党]]の[[フアン・ボッシュ]]を破り勝利した。バラゲール政権のもとではいちおうの安定が回復され、砂糖価格の上昇や外国からの投資、観光が好調で経済はうわむき「ドミニカの奇蹟」と呼ばれた。[[1970年]]、[[1974年]]選挙でも再選。ボッシュ派のドミニカ革命党は選挙を[[ボイコット]]した。
 
しかし、1970年代後半から砂糖の需要低迷でドミニカ経済は不安定になり[[1978年]]の大統領選で[[アントニオ・グスマン (ドミニカ共和国の政治家)|アントニオ・グスマン]]に敗れた。だが、その後も経済は悪化したため[[1986年]]の選挙で高齢で[[白内障]]にかかり[[視力]]がほとんどないにもかかわらずバラゲールが再選された。[[1990年]]、[[1994年]]も連続当選したが国内問題を充分に解決できなかった。[[1996年]]、任期を半分残して90歳で引退した。