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[[1926年]]に中野重治らと同人誌『驢馬』を創刊。 このころは、『水族館』などの[[モダニズム]]の影響を強くもった作品もある。[[1927年]]、芥川龍之介が自殺し、大きなショックを受ける。この頃の自身の周辺を書いた『[[聖家族 (小説)|聖家族]]』で[[1930年]]文壇デビュー。 [[肺結核]]を病み、[[軽井沢]]に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこしたことにもつながっていく。また、病臥中に[[マルセル・プルースト]]や[[ジェイムズ・ジョイス]]などの当時の[[ヨーロッパ]]の先端的な文学に触れていったことも、堀の作品を深めていくのに役立った。後年の作品『幼年時代』([[1938年]]-[[1939年]])にみられる過去の回想には、プルーストの影響を見る人も多い。
 
[[1933年]]、軽井沢で矢野綾子と知り合う。その頃の軽井沢での体験を書いた『美しい村』を発表。[[1934年]]、成城在住の矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、[[八ヶ岳]]山麓の[[富士見高原病院|富士見高原療養所]]にふたりで入院する。しかし、綾子はその冬に死去する。この体験が、堀の代表作として知られる『[[風立ちぬ (小説)|風立ちぬ]]』の題材となった。この『風立ちぬ』では、[[ポール・ヴァレリー]]の『海辺の墓地』を引用している。このころから[[折口信夫]]から日本の古典文学の手ほどきを受け、王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の姿を描くことにも挑戦し、『[[菜穂子 (小説)|菜穂子]]』(1941年)のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。
 
[[1937年]]、加藤多恵(1913年7月30日-2010年4月16日)と知り合い、[[1938年]]、室生犀星夫妻の媒酌で結婚。身近な人を次々と亡くし、自身も肺結核と闘病する辰雄に多恵夫人は生涯尽くし続けた。