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Ryo-Kondo (会話 | 投稿記録)
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その後、義銀は信長の庇護を受け、一時は信長が内外の目をそらすため、信長の画策により、義銀を守護に奉じて、[[三河国]]の[[吉良氏]]・[[駿河国]]の[[今川氏]]など、足利氏一門の守護同士の盟約が図られるなど、義銀は信長の傀儡として利用され続けた。
 
この同盟の締結時に、義銀は[[石橋氏]](足利氏御一門)[[石橋義忠]]の戸田館において[[吉良氏]]の[[吉良義昭]]と対面したが、互いに足利一門最高の格式を誇る家柄同士であったことから席次を巡って争ったという。この時のことについて、『[[信長公記]]』によれば、同盟締結のため、斯波・吉良両氏の軍勢が約束の地として定めた上野原に到着し、互いに一町ほどの距離を置いてものものしく人数を立て備えたという。参会の場では両勢の一方には吉良義昭が、その一方には義銀がそれぞれ陣前に床几を据えていたというが、両人ともに一歩も動かなかったという。実は対面の席次のことで争いがあり、双方とも譲らなかったため、対面は相互に十歩程度前へ出て顔を合わせただけで、格別の挨拶の品もなく終了したという。
 
=== 追放 ===
しかし、当初は吉良氏と席次を争っていた義銀も、斯波氏の権勢を取り戻そうと吉良氏と結んで信長の追放を画策するようになった。義銀は尾張に御座所を構えていた斯波足利御一門の[[石橋義忠]]、[[吉良義昭]]、[[今川義元]]、河内の[[服部友貞]]と通じ、今川の軍勢を海上から引き入れようとしたのである。

しかし、この密議は信長に知られるところとなり、義銀は尾張を追放され、大名としての斯波武衛家は滅びた。のちに上洛した信長により、武衛家の京屋敷は、将軍・[[足利義昭]]の居城として利用された。
 
===後半生===
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==脚注==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[石橋義忠]]
*[[石橋氏]]
*[[吉良義昭]]
 
== 参考文献 ==