削除された内容 追加された内容
ru:Битва на реке Сити(04:14, 9 сентября 2013)‎より抄訳
 
m リンク先修正
43行目:
 
==戦闘の経緯==
ウラジーミル占領の後の3週間、ブルンダイの第2軍は主軍のおよそ2倍の距離を遠征した後、シチ川へと至った。また同刻、主軍はトヴェリ・トルジョークでの包囲戦に勝利した後、[[ウグリチ]]方面からシチ川へと接近していた。対するルーシ軍は、ドロフェイ・セミョーノヴィチの指揮する3000人の部隊を除き、兵を収集する時間がなかった。1238年3月4日の戦闘でウラジーミル・スーズダリ軍は包囲され、ほぼ全員が死ぬか捕虜となった。大公ユーリーは戦死し、首はモンゴル征西軍の総司令官・[[バトゥ]]の元へ送られた。[[ヤロスラフ公]]フセヴォロド[[:ru:Всеволод Константинович|(ru)]]は戦死し、捕虜となった[[ロストフ公]][[ヴァシリコ[[:ru:Василько Константинович|(ruロストフ公)|ヴァシリコ]]はシレンスクの森で処刑された。スヴャトスラフ[[:ru:Святослав Всеволодович (князь владимирский)|(ru)]]、ウラジーミル[[:ru:Владимир Константинович|(ru)]]は退却に成功した。
 
==結果==